大正5(1916)年の明日6月29日に尼僧を専門に40人以上を強姦し(巫女や一般女性も被害に遭っている)、司法で立件告発されただけでも強盗殺人3件、強盗強姦5件、強盗7件、窃盗9件(立件できなかった事件は他にも多数ある)の凶悪犯罪を重ねた大米龍雲師(曹洞宗で得度を受けた僧侶なので敬称を付けざるを得ません=道元師は善良な俗人よりも悪徳の出家者の方が上位と説いているため)の死刑が執行されました。
大米師は明治4(1871)年に浅草で生まれましたが幼い頃に両親が亡くなったため経歴は本人の自己申告に依るしかありませんが、近所の住民の情けで7歳になった頃に押しかけてきた親戚に家と土地を奪われて、人買いに売られて大分市の曹洞宗の寺に捨てられたと言っています。そのため本籍や本名は不明でそれが裁判で前科を隠すのに役立ち、初犯として短期間の刑期で出所を繰り返すことになりました。
18歳の時、養父の師僧が死亡したため寺を出て熊本の柔道家の内弟子になり3段の段位を取得すると折から勃発した日清戦争に志願して戦地では地雷を踏んで鼻を吹き飛ばされる負傷を負いました。戦争が終わって復員すると名誉の負傷兵として静岡県島田市(現在の=以降同じ)の寺を紹介されて住職になったものの曹洞宗が無料で譲ってくれた寺だけに檀家が少ない貧乏寺で(現在は兼務住職)たちまち生活に困窮してしまい、22歳で寺を捨てて出奔すると詐欺や窃盗の全国行脚を始めました。
そんな中、明治38(1905年)1月に兵庫県尼崎市の尼寺に押し入って72歳の尼僧を強姦・殺害して現金を奪って逃走し、同年6月に島根県松江市の男性の住職に詐欺を仕掛けると警察に通報されて逮捕されましたが尼僧の殺害は発覚しなかったため4か月の服役を終えることになり、これで自信を深めて犯罪行脚を再開したのです。
こうして大正2(1913)年4月に神奈川県小田原市の60歳の尼僧を強姦して海に突き落として殺害・貯金通帳と現金を奪い、同年夏に神戸の波止場で26歳の男性と口論になって殺害、同年秋には福岡市の民家に押し入り、飲食店を経営する女性を強姦して内縁の妻にしました。大正3(1914)年夏に内妻を連れて上京すると京橋で間借りして各地で犯行行脚を続け、同年9月には京都市の尼僧が叫び声を上げたため舌を手で引き裂いて大量の出血で窒息死させています。さらに同年11月には神奈川県鎌倉市の高齢の尼僧を殴りつけて現金を奪い、大正4(1915)年1月にも鎌倉市で21歳の尼僧を強姦して殺害し、同年7月に東京の杉並で69歳の尼僧を強姦して現金を奪って逃走した時、生存した尼僧の証言で年齢、身長、鼻が欠けているなどの特徴が確認されて全国に手配が回り、同年8月8日に内妻の地元の九州へ逃亡して到着した博多駅で手荷物を荷車に積んでいるところを張り込んでいた捜査員に取り押さえられたのです。
裁判では1審で死刑が確定しましたが判決を言い渡す裁判長に「面倒臭せえからさっぱりやってもらいやしょうぜ」と言い放ち、執行時には最後の煙草を吸い終わると「さあ、やって貰おうか」と言って刑場に進み、目隠ししようとする刑務官を「止せやい、くたばっちまえばどうせ何も見えねえんだ」と制した堂々たる態度だったそうです。
- 2022/06/28(火) 15:10:41|
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