スタニパータ第152句「諸々の邪ま(よこしま)な見解(けんげ)にとらわれず戒を保ち見るはたらきを具(そな)えて諸々の欲望に関する貪(むさぼ)りを除いた人は決して再び母胎に宿ることがないであろう」
この一句は我々が聞き慣れている日本の大乗佛教とはかなり趣が違います。先ず日本の佛教では他の宗派を「外道(げどう)」と呼んで殊更に揶揄することは避けます。勿論、外道には「異端」と言う臭いもしますが、文字面では「別の」「他の」と言う意味になるでしょう。これを口頭で聞いた素人=檀家・門徒・信者が「下道(げどう)」と誤解することはよくありますがこの「邪道」よりは和(やわ)らかいです。
次に日本の佛教では愚禿親鸞聖人や一休宗純禅師、大愚良寛和尚などの戒律を「心を縛る」と否定する自由な境地が人気を集めていて、この句も「南方佛教の時代遅れな閉鎖性の証左」と揶揄されるかも知れません。しかし、佛教の戒律は金箇条として頑なに守り、背くことを禁じ、それを他人にも強要するモーセの十戒のような列車のレールではなく、「外れたら危ないよ」と言う自らの意思で保つガードレールであってそれを「縛られる」と感じるのはある種の自意識過剰です。
また日本では佛教徒だけでなく僧侶の多くも「煩悩」と「本能」を取り違えていて、成道の境地を「本能」を消し去った状態だと思って「有り得ない」と否定してしまい、前述のような僧侶を持て囃しますが、修行によって捨てるのは欲望に煩わされる「煩悩」であって単に執着を絶てば済む話です。
そして最後の「決して再び母胎に宿ることがないであろう」は楽しい人生を満喫して、「次に生れるならば」と夢を思い描いている現代人にはこれがどうして結論になるのか理解できないでしょう。
日本では輪廻転生を佛教の普遍的な生命観と説いていますが、本来は古代インドのバラモン教の教説であり、人間が死ねば生前のカルマ=業(ごう)に報いる形で再生すると言う思想は因果応報を具現化する形で佛教にも採用され、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道に声聞・縁覚・菩薩・佛を加えた十界として日本でも布教されています。しかし、釋尊が小国とは言え次の王子の地位と妻子を捨てて出家したのは「この世に生きることは苦しみに外ならない」と実感したことが動機であり、この結論はその苦しみを再び身に受けないで済む根本的な救済を意味しているのです。
尤も、釋尊の最晩年に阿難尊者だけを伴った最後の旅を描いた「涅槃経(曹洞宗などが通夜で用いている『佛垂般涅槃略説教誡経=遺教経』は亡くなる直前の最期の遺訓)ではベーサリーの滔々と流れるインダス川の風景を見た釋尊が「ああベーサリーは美しい。この世は何と甘美なものなのか」と感慨を口にしたとあるので、六年間の苦行を捨てて菩提樹の根元に坐り、明けの明星と一体となった三十歳からの五十年間で。この世を捨てることが唯一の救いと断じるような苦界から甘美な感慨を噛み締めて眺めるようになる変化(「成長」と評価するのには抵抗がある)があったようです。その意味でも南方佛教は実在した釋尊の肉声の宗教であり、佛陀としての変化や人間味までも伝えているようです。
- 2022/07/01(金) 14:28:57|
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