寛永17(1640)年の7月2日に幕末を描いたドラマや小説では反乱分子と芸妓の色恋の舞台になる嶋原遊廓(最近は「島原」と現代の字体で書くことが多い)ができました。
遊廓は平安時代から港や湯治場、神社や寺院の門前などにできていた遊女を集めた色町を室町時代に幕府が担当部署を設置して徴税の対象とする代わりに保護したことで成立した公娼=公認の売春街です。遊廓と言う呼称は城郭と同じく堀や塀で囲って部外者の立ち入りと部内者の出歩きを制限したことに由来し、単に廓(くるわ)や傾城町(けいせいまち=古代中国の王が愛妾に散財して国家を財政破綻させた故事による)とも言います。
関西地域では海運が盛んになった平安時代から大阪湾岸と淀川流域の江口と神崎に船乗りや積荷人足を相手にする遊女が集まっていましたが、あくまでも個人経営の私娼であって組織だった遊里や色街にまで発展しませんでした。そんな遊女たちを集めて専用の宿で売春させるようになったのは室町時代になってからで3代将軍・足利義満さんが現在の東洞院通り七条に許可した傾城町が日本の公認の売春街の始まりとされています。
その後は応仁の乱によって京都は荒廃しますが人の往来があれば売春業は成立し、次第に作法などが定まり一カ所に集まって組織として完成していったのです。そうして豊臣秀吉によって太平の世になると天正17(1589)年に京都の売春街の経営者2人が願い出た大坂の道頓堀川北岸と京都の二条柳町に新たな遊郭の設置が認可されました。ただし、京都の二条柳町の遊廓は江戸幕府によって市街地から六条に遠ざけられて六条三筋町と呼ばれるようになりました。
一方、江戸では慶長17(1617)年に駿府の二丁町遊廓を江戸の町割に伴い日本橋人形町付近に移転させて吉原遊廓と命名したのが始まりで、明暦3(1657)年の大火で焼失すると浅草の日本堤付近に新設移転して再び吉原遊廓になりました。後に京都の嶋原、大坂の新町、江戸の吉原が日本3大遊廓とされています。
このように江戸幕府の風俗政策が確立していく中で大坂の道頓堀は新町に、京都の六条三筋町はさらに遠方の朱雀野(「野」が付く地名でも原っぱだったことが判る)に移転を命ぜられ、以降は嶋原と名乗ることになりました。この名前は唐突な移転命令で土地割と建物の建設、荷造りと運搬、娼婦の移動などが寛永14(1637)年から寛永15(1638)年の島原の乱で関東から派遣された幕府軍が京都を通過した時のような混乱ぶりだったことや原っぱの中に建設された遊廓が草の海に浮かぶ島のようだったことなどが由来とされています。
こうして強制的に再出発することになった嶋原遊廓ですが京都から遠く離れていたため往路には売春費用の大金を持って歩かなければならず(追剥に狙われる)、何よりも遊廓に行くことを家族や周囲に隠すことが不可能で元禄以降にできた祇園や祇園新地、上七軒、二条などの遊里に遊び客を取られて格式だけで経営を維持する窮状に陥りました。
結局、幕末の嘉永4(1851)年の大火で揚屋町以外の大半が焼失して、昭和に入ると揚屋町に街並みを残す他は京都市郊外の新興住宅地になりました(京都の風俗業界は蜷川革新府政で徹底的に弾圧された)。
- 2022/07/02(土) 13:38:39|
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