昭和49(1974)年の明日7月5日に仙台拘置所で仙台幼児誘拐殺人事件の犯人で新東宝の映画俳優だった天津七三郎(芸名)の死刑が執行されました。39歳でした。
天津は昭和10(1935)年に仙台市で警察官の息子として生まれましたが中学生の時に父親が結核で病没し、多感な高校生になると母親が別の男性と同居を始め、本人も病弱で長期欠席していたため退学し、上京すると美男子だったこともあり昭和31(1956)年に新東宝から天津七三郎の芸名でデビューしました。俳優としてはテレビの時代劇「変幻三日月丸」のレギュラーだけでなく脇役ながら昭和32(1957)年の「天皇皇后と日清戦争」、昭和35(1960)年の「続番頭はんと丁稚どん」、移籍した松竹ではカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した「切腹」などに出演しましたが、ヒロポンの常習で逮捕されると仕事が減り、母親に仕送りを頼みましたがそれは同居男性への借金に過ぎず、昭和37(1962)年に俳優を止めて妊娠中の妻を連れて仙台市の実家に帰ったのです。この時、母親は借金の返済を巡って同居男性と別れていました。
しかし、収入がないにも関わらず東京での芸能人としての華やかな生活を改めることはできず、知人から借金してまで派手な生活を続け、何度か会社を始めたものの借金を膨らましただけでした。そんな昭和39(1964)年に手形の期日延期を申し入れた金融会社の社長の裕福な生活を目の当たりにして、まだ犯人は逮捕されていなかった吉展ちゃん誘拐事件を参考に当時6歳の三男を誘拐する犯行計画を立てたのです。
こうして昭和39(1964)年12月21日に幼稚園の職員を装って「幼稚園の外国人神父が帰国するので記念写真を撮影するから登園して欲しい」と電話をかけ、幼稚園の門前で受け取った後に自家用車に乗せて連れ去り、仙台市内を走り回っている間に被害者が「帰りたい」と泣き叫び、助手席で暴れ始めたため立ち上がった際に首を掴んだところ失神したのでトランクに入れて人目につかない場所へ運び、そこでロープで首を絞めて殺害したのです。殺害後、天津は被害者の自宅に電話をかけ、母親に「500万円用意するように」と指示し、受け渡し場所に現れたところを逮捕されました(まだ営利誘拐の犯例は少なく警察の対応は知られていなかった)。
1審の仙台地方裁判所では東京での吉展ちゃん誘拐殺人事件(別件で服役していた犯人が特定されていた)を契機に勃興した営利目的の誘拐の厳罰化を求める世論を受けて刑法が改定されていたため死刑が求刑されましたが、天津の不遇な生い立ちや殺害は偶発的だったとする弁護側の主張が認められて昭和40(1965)年4月5日に無期懲役の判決が下りました。しかし、2審では殺害の偶発性を認めず、情状酌量についても犯行の凶悪性を薄めることはできないと昭和41(1966)年10月18日に死刑判決を下し、上告審でも最高裁は昭和43(1968)年に死刑を維持しました。
拘置所内で天津は絶えず「城ケ島の雨(作詞・北原白秋さん、作曲・梁田貞さん)」を唄い続け、執行時も首にロープをかけられて床板が開いて落下する瞬間まで口ずさんでいたと言われます。その理由は明らかになっていません。
- 2022/07/04(月) 15:35:38|
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