翌日は午後から安里家の両親と一緒に淳之介、あかり、恵祥、いりえの一家を日本トランスオーシャン航空まで送った。淳之介は会社から自家用船に家族を乗せて他の島に移動することを禁止されているため石垣島からは家族4人で社長が操舵する連絡船の乗客になる。その翌日の朝の便で関西空港に向かい、新型コロナ・ウィルス感染症に関する煩雑な手続きと検査を終えてKLMに乗る前にはレストランで早めの昼食をすませた。
「何だか妙な胸騒ぎがするわ」「どれどれ・・・」「馬鹿」KLMの機内で窓から日本の風景を眺めながら梢が妙なことを口にしたので乳房に手を当てて確認すると禿頭を叩かれた。今回は妙に煩悩が騒いでしまう。と言うよりもオランダでは普通の男女の至近距離が日本、特に本土では違和感を自覚させられるようだ。
「前回、貴方の定年退官で来た時には成田を発った7月3日に熱海の住宅造成地で土砂災害があったじゃない」「あの時は志織が関東地方に厚い雨雲が停滞している。揺れるよって厚木基地気象隊の予報を教えてくれたんだったな」その土砂災害のニュースはオランダでは報道されず1ヶ月後に茶山元3佐から届いた7月分の新聞であらためて知った。今思えば私たちが成田空港を離陸して間もない10時28分に災害が発生して27名が犠牲になったことになる。
「あの時は雨天で体育館の見送りになったんだよな」続いて私は体育館で行われた定年退官行事を思い出した。中でも見送りは黒っぽい新制服を着てマスクをはめた隊員が壁に張りつくように並び、見るからに異様な雰囲気だった。晴天であれば最後のワガママとして幕僚副長以下の参加者に迷彩服を着てもらい私は刺殺した暴徒の血痕が残るPKOのブルー・ベレーと腕章をはめて前を歩きたかった。現在の私は自衛隊人生を北キボールPKOで陸上自衛隊初の戦闘を実施することだけが存在理由だったように評価しているのだ。
「でも今回の胸騒ぎはこの風景から感じるの」梢の説明にシートベルトをしたまま身体を乗り出して窓を覗くと関西国際空港を離陸したKLMは大阪湾から関西地方を通過して琵琶湖から若狭湾に差し掛かり、急速に上昇していた。今日は前回とは逆に快晴に近い天候なので若狭湾を航行する船の引き波の白い線まで見える。それは今回、確認した海空自衛隊と海上保安庁、沖縄県警の悲壮な惨劇を起こした武力衝突が沈静化した長閑な日常風景だが、梢は五感を超えた危機の予兆を感知しているらしい。
「当機は安定飛行に入りましたので機内放送を始めます。しばらくは日本の国営放送の英語番組をお楽しみ下さい」その時、客室乗務員の機内アナウンスが入った。ヨーロッパの航空会社は自国と出発地の言語に英語とフランスで説明するので説明が長くなる。その間に機内スクリーンにニュースの前置きの映像が流れたので前の座席のポケットに入っている小型ヘッド・ホーンを肘かけに接続して聞き始めた。すると画面の中央に登場したハーフの女性アナウンサーは日本式に頭を下げながら英語で挨拶した。
「本日正午に北朝鮮は日本と韓国、アメリカ政府に数日中に日本海に向けて宇宙ロケットの発射実験を実施すると通知してきました」女性アナウンサーの顔は冒頭から非常に緊張している。正午であれば1時間ほど前なので昼食を早めにしなければレストランのテレビで見られたかも知れない。出発ロビーでも機内に持ち込むアタッシュケースに入れてある資料に憑りついた死霊を鎮めるために読経を勤めていてテレビは見なかった。
「日本政府としてはこれまで北朝鮮はミサイルの発射について事前通知してきたことはなく、宇宙ロケットと称する発射実験でも計画の存在を明らかにしただけで期日については明確にしなかったので、今回の通知については関係者も真意を測りかねているようです」女性アナウンサーは画面の半分が過去に北朝鮮が宇宙ロケットと発表した動画になるのを待って解説を続けた。編集担当者も動画の選択には苦労したようだ。
「政府としては今回の通知が北京経由などの外交ルートを通じた公式なモノではなく一方的なメールだったことから信憑性は低く、石田首相は外務省には外交ルートを通じた確認と韓国政府への情報交換の要請、防衛省には現在の配置のままでPAC3による迎撃態勢の準備を指示したようです」どうやら梢の胸騒ぎの原因はこれだったらしい。そうなると宇宙ロケットと称している飛翔体は危険な兵器である可能性が高くなる。
「厄除けのお経を勤めておいた方が良いかな」「これから離れていっちゃうもんね」ニュースが変わったところで梢に話しかけると即座に賛同した。確かに窓から見える風景は一面の海になっているからすでに領空を出てしまったようだ。
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈。世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁・・・」前後の席はオランダ人だったので梢がオランダ語で「日本の平和を祈る」と事情を説明した。
- 2022/07/05(火) 15:22:57|
- 夜の連続小説9
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