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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月11日・敗戦後に活躍した陸軍中野学校出身者・末次一郎少尉の命日

2001年の明日7月11日は陸軍中野学校二俣分校出身者で敗戦後の日本で独自の活躍をした末次一郎少尉の命日です。
末次少尉は大正11(1922)年に佐賀県杵島郡福富町(現在の白石町)で生まれました。旧制佐賀商業学校を卒業して豊橋にあった第1陸軍予備士官学校を経て陸軍中野学校二俣分校に入校し、諜報戦(スパイ)と遊撃戦(ゲリラ)を学ぶと大陸で活躍したようですが具体的には明らかにしていません。
敗戦後、陸軍中野学校出身者の多くは東南アジアに残留し、本校出身者は政治工作や諜報活動、二俣分校出身者はベトナムやインドネシアなどの独立運動の指導者として活躍していますが、末次少尉は早い時期に帰国すると25歳から東京都引揚対策審議委員会委員、海外抑留同胞救出国民運動総本部理事・組織部長などを歴任して日本国内から海外抑留者の支援に取り組みました。中でも昭和24(1949)年に設立された日本健育会では海外での抑留者の帰国援護と促進、留守家族の支援、現地「戦犯」の家族の介助などに尽力し、日本が独立して間もない昭和27(1952)年にカナダのトロントで開催された赤十字最高会議に日本代表として参加すると外交関係を持たないソビエト連邦や共産党中国に抑留者の帰還を強く求め、続いてアメリカとフィリピンに「戦犯」の釈放を訴えて実現に貢献しています。末次少尉の卓越している点はこれらの対象に台湾や朝鮮半島から出征した将兵も忘れなかったことで台湾は大陸から敗走してきた蒋介石政権、韓国は朝鮮戦争で劣勢に陥っていた李承晩政権が元日本軍人を対日協力者として迫害していることを知ると日本での自活事業の斡旋と支援まで実施しています。
これらの事業が一段落すると次は青少年の健全育成に取り組み、昭和34(1959)年に提唱した青年の海外派遣事業を実現するため昭和40(1965)年に青年海外協力隊、昭和41(1966)年に青少年育成国民会議を創立したのを皮切りに青少年育成に関する組織の指導者として長年にわたって活躍しました。
この他にも非政府組織による海外支援事業(現在のNGO)の創始者であり、沖縄返還運動の支援者として佐藤栄作内閣のアドバイザーとなり、昭和44(1969)年には学者や元外交官、元軍人などの非政府要人でも社会的影響力を持つ人々を参集しての京都会議を開催して「核抜き・本土並み・72年実現」と言う返還3原則を発表して実現しています。その後も中曽根康弘内閣では第2次臨時行政調査会の参与として参画していますが、その一方で環境問題や核兵器反対運動では反政府側の大物としても振る舞いました。
そんな末永少尉の愛国者としての逸話が昭和43(1968)年10月28日に日本武道館で開催された明治100年記念式典での「天皇陛下万歳事件」です。式典では佐藤栄作首相の音頭で「日本国万歳」が三唱されたのですが、式典が終わって退席される昭和の陛下ご夫妻が目の前に差し掛かった時、末永少尉が「テンノーヘーカッ(天皇陛下)」と叫び、陛下が立ち止まられて背中を伸ばされた瞬間に「バンザーイッ(万歳)」と絶叫したのです。その後は佐藤首相の時以上の大声での三唱になったのは言うまでもありません。
  1. 2022/07/10(日) 14:46:57|
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