2003年の明日7月12日はフランスが植民地支配の再開を目論んで派遣した軍に抵抗するベトナム独立戦争に貢献して後に勲章を授与された中原光信少尉の命日です。中原少尉の珍しいところは東南アジアの独立戦争に参加した陸軍将校の大半は諜報活動や情報工作を専門とする陸軍中野学校や遊撃戦の陸軍中野学校二俣分校出身だったのに対して法政大学在学中に学徒出征して熊本の陸軍予備士官学校を経て情報士官になったことです。
中原少尉は大正11(1922)年に愛媛県で生まれ、法政大学に進学すると剣道部の主将を務めましたが昭和19(1944)年に学徒出征し、熊本の本来は予備役士官を養成する学校でしたが課程期間が短いため戦時下では速成教育を担当した陸軍予備士官学校に入営すると卒業後は情報士官として旧フランス領インドシナ=現在のベトナムのフエに赴任しました。現地では日本の敗北を前に日本軍が独立のために育成していたベトナム人部隊の幹部たちと連絡を取り合い、降伏後は南方軍総司令部の井川省少佐の「緊急事態が発生したと言うことで武器庫に施錠せずに至急撤退せよ」と言う指示を実行して保安部隊を司令部に呼び寄せてフエの旧王宮内の武器庫を無人にすると中に保管していた明号作戦(フランスがナチス・ドイツに占領されたため友邦として占領地支配を継続させていたが連合軍に奪還されたことで敵対し、改めて軍事占領した作戦)で押収したフランス軍の武器と弾薬をベトナム独立軍に引き渡しました。
続いて日本軍の降伏に加わると保養地・バーナー高原に日本軍が自分で建設していた自主キャンプ(一般的には捕虜収容所ですが警備まで旧日本軍の自治組織が運営していました)に入って対外交渉を担当しましたがフランス派遣軍の動向を聞き、昭和21(1946)年1月に脱走すると用意された車両でダナンへ行ってベトナム独立軍に参加しました。この時からグエン・ミン・コックのベトナム名を名乗るようになりました。
ベトナム独立軍では同様に脱走した中野学校二俣分校出身の谷本喜久男少尉たちと共に指揮官要員の軍事訓練を担当しながら4月上旬には海岸線を北上するフランス派遣軍を阻止する戦闘の指揮官を指導するために派遣されています。そうして4月に初の指揮官養成学校・クァンガイ陸軍中学校が設立されると谷本少尉と共に教官になりました。
その後は戦術的助言を与えてベトナム独立軍の勝利に貢献し、軍事参議官に就任して軍中枢の作戦会議にも参画するようになりました。さらに昭和26(1951)年から昭和29(1954)年にかけては日本人数名と共に参謀本部軍事訓練局に配属され、フランス派遣軍が使用するようになった航空機との対空戦闘の研究などに取り組みますが、日本が独立を果たした後では未帰還者扱いはされず第1級戦勝勲章と第3級戦功勲章を受けて他の日本人と共に帰国の途につきました。
帰国後は日越貿易会を組織して日本とベトナムの経済交流に貢献し、フランスとのインドシナ紛争やアメリカとのベトナム戦争では北部のホンゲイ炭坑産の石炭を輸入して北ベトナムを支援しました。やはりベトナムの独立と建国を指導した日本陸軍の軍人にとっては南は傀儡政権、北の方がベトナム民族としての正当な国家だったようです。
- 2022/07/11(月) 13:39:43|
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