3基の原子炉本体が破壊され、炉心から放射能が流出しているため人間が近づくことができず、何も処置が始まらない事態をマスコミは大々的に取り上げている。今回も福島第1原子力発電所の事故の時と同様に健康被害を前面に出して読者・視聴者の不安を煽っているが、福島原発の事故を切っ掛けにして一般市民にもガイガー・カウンター(放射線量測定機)が普及しているのでメールで届く素人が測定した数字を各地の放射線量として紹介し、わずかな数値の高低が居住地の安全性の優劣になっている。島田元准尉としては新型コロナ・ウィルス感染症の流行が始まった頃の市町村別の感染者数を連想していた。
「貴方、岐阜県にも放射能が飛んできてるみたい」岐阜県可児市の島田元准尉宅でも妻の順子がテレビの報道バラエティー番組が紹介している東海三県の放射線量の数値を見て悲鳴のような声を上げた。新聞を読んでいた島田元准尉が画面に目をやると岐阜県を飛騨と美濃を東西の3つに割った天気予報のような一覧表でも岐阜県西部の数値が多少高くなっている。解説しているアナウンサーは「この程度の数値なら直ちに健康に影響を与えることはありません」と説明しているがゲスト席に座っている女性タレントは顔で不安感を目一杯発信しているから言葉の説明の方が空々しく感じてしまう。
「数値が高いのは揖斐郡辺りだろう。伊吹山の向こうは滋賀県だから風が運んでくるんだな」「でも揖斐川の上流じゃない。放射能に汚染された水が流れてくれば岐阜市内にも影響があるはずよ。それに徳山ダムもあるから水道水も心配だわ」順子の反論はテレビの報道バラエティー番組が流布している被害妄想に近い解説の請け売りだ。福島原発の事故の後も東京の民放各局は競い合うように放射能の影響を解説していたが、日本に核爆発や放射能汚染の専門家がそれほど居る訳ではなく、間もなく美人産婦人科医に放射能による胎児の奇形の発生の可能性を怯えた顔で語らせ、料理研究家の小母さんにまで放射能に汚染された食材による健康被害の熱弁を奮わせていた。それを鵜呑みにした女性たちがガイガー・カウンターを買い漁り、屋外に出る時は必ず携帯して測定した数値をメールで交換するのが流行になった。
「確かに放射能を遮断する処置が始められない以上、影響を心配する必要はあるな。しかし、俺たちは子供を作る予定はないから警戒するなら白血病くらいだろう」「原爆の子ね」順子は即答した。島田元准尉や順子の世代はアメリカの占領下の間は学校の授業で原爆について習うことはあまりなかった。ところが独立を果たすと教師たちは腹に溜め込んできた欝憤を吐き出すように反戦平和教育を始め、原爆を投下したアメリカを人類の敵であるかのように教え込み始め、学校の図書館には永井隆博士の「長崎の鐘」や「この子を残して」などが並んだ。それだけでなく少年雑誌にもまだ生存していた(1955年10月25日没)後に原爆の子像のモデルになる佐々木禎子の物語が載っていた。
「それでも長崎から熊本と若狭湾から岐阜の距離に大差はないだろう。北西の風が吹けば長崎に落ちたプルトニウム爆弾の放射能はお前が暮らしていた阿蘇にも飛んできていたはずだぞ」「それはそうね。知らないって恐ろしいことだわ。長崎の原爆も他人事だと思って安心して暮らしてきたんだもん」順子の反応はやや外れているが、ようやく武力衝突が沈静化して安堵していたところに遠くはない場所でこの大事件が発生すれば厭戦気分が湧き上がっても不思議はない。一方、島田元准尉は長崎の原爆は本来、実家があった小倉に投下する予定だったが、築城の海軍と小月の陸軍の戦闘機が迎撃し、前日に空襲した八幡の黒煙で目標が確認できずに断念し、逃走するのに重量を軽くするため第2目標の長崎に投下した史実を知っているので決して他人事ではなかった。この史実を学ぶと原爆の投下は大統領の命令だが、通常の空襲はアメリカ陸軍の第20空軍司令官の命令なので同じサイパン島から発進していても情報の共有や作戦の調整は行われていなかったことが判る。
「北朝鮮は前もって日本海に宇宙ロケットの1段目が落ちるって教えてくれていたんだから原発を止めておかなかった日本政府の責任も重いんじゃあないですか」会話が途切れるとテレビの音声が耳に入ってくる。話題は原発の破壊の原因になった弾道ミサイルの着弾だが、出演している男性タレントは目を引きつらせて断定的に発言した。
「こいつは北朝鮮の手先か。空中分解した宇宙ロケットの部品が落下したくらいで原子炉まで破壊されるはずがないだろう。弾道ミサイルだったから命中して破壊されたんだ」「でも新聞も同じ意見よ」順子の意見は反論と言うよりもローカルFM番組のDJを続けている夫に世間の見方を確認させる助言だ。防衛省・自衛隊がイージス護衛艦や経ヶ岬のJ/BMD3=ガメラ・レーダー、車力のアメリカ軍のTPYS=Xバンド・レーダーの探知精度を保全するため細部情報を秘匿していることもそろそろ限界のようだ。
- 2022/07/15(金) 14:52:41|
- 夜の連続小説9
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