福岡県北九州市小倉北区では昭和62(1987)年から7月の第3金土日曜日(それまでは7月10日・11日・12日だった)に小倉城内の八坂神社の祭礼として小倉祇園太鼓が行われ、街中に太鼓と鉦(ジャンガラ)の音が響きわたります。この小倉祇園太鼓は博多祇園山笠、京都の祇園祭と共に日本3大祇園祭とされています。
小倉祇園は江戸時代初期の元和4(1618)年に小倉城主だった細川忠興さまが家宝を売り払って得た資金で干ばつと疫病、暴風による水害に苦しむ領民を救済し、城内の八坂神社に参籠した結果、災厄が沈静化したため太陰暦の6月10日からの3日3晩に京都の祇園祭を模した祭礼を始め、領民も男女を問わず城内に入れて楽ませたのが始まりです。
その後、城主が小笠原氏に代わっても祭礼は領民を慰撫するために奨励され、始めは京都の祇園祭風に能の鉦と鼓、笛だった楽器が万治3(1650)年からは江戸の神田祭りや山王祭り式の太鼓と鉦に変わりました。一方、山車は幕末まで京都の祇園祭風に神輿を担ぎ、飾りつけた車を人々が引いて街中を練り歩き、その後を6尺棒に吊った太鼓が続行して叩いたようです。祭りの最後は大手門から城内の八坂神社に向かい、城主が在藩の時には櫓から見物していたのですが、幕末の奇兵隊の侵攻で大半が焼失・破壊されたため明治末期になって現在の太鼓を載せた山車になりました。
小倉の祇園太鼓は直径1尺3寸から1尺5寸までが定式とされていますが、まれに1尺7寸や2尺の大型もあるようです。また練り歩く山車に載せて叩きながら街中を巡るのが一般的ですが、街中には厄除けに叩く台に載せた据え太鼓も置かれています。
小倉祇園太鼓と言えば何と言っても映画と村田英雄さんの名曲「無法松の一生」です(原作は岩下俊作さん作の小説「富島松五郎」)。野僧は沖縄で勤務していたショップ(分隊)の根っからの小倉人(現在は京都郡苅田町在住)のM2曹がFー4EJファントムⅡへの機種転換OJTのため築城基地に行く直前に飲みに連れて出して「小倉に行くならこの歌が唄えにゃいかんたい」と言いながら1000円札を100円玉に崩してカウンターに積み上げ、ママさんに「歌えるようになるまで」と言って「無法松の一生」の練習をさせました。特に間奏として入る「度胸千両」では腕組みしながら聞き入って指導したため「空に響いたあの音は 叩く太鼓の勇み駒 山車(だし)の竹笹提灯は 赤い灯(あかし)に揺れて行く 今日は祇園の夏祭り 揃いの法被の若い衆(しゅ)は 綱を引き出し音頭とる 玄界灘の風受けて 撥が激しく右左 小倉名代は無法松 度胸千両の暴れ打ち」を浪曲風のコブシを効かせて唄えるようになりました。
M2曹はレンタルビデオ店で借りてきた昭和33(1958)年公開の三船敏郎さん主演の映画「無法松の一生」を見せてくれたので「度胸千両」で歌っている場面を映像として確認できました。ちなみに戦時下の昭和18(1943)年公開の坂東妻三郎さん(=田村3兄弟の父)主演の前作は主人公の無法松=富島松五郎さんが未亡人になった吉岡大尉の妻を慕う粗筋が風紀を乱すとして検閲の対象になり、秘めた想いを隠して不器用ながら母子に献身的に尽す感動的な部分は上映できなかったようです。
- 2022/07/15(金) 14:53:45|
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