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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月15日・傾国の美女・楊貴妃の命日

今回は外国なのでキリスト教暦756年の太陽暦7月15日は唐の玄宗皇帝が溺愛のあまり政務をおろそかにして家臣の離反を招いた傾国の美女・楊貴妃の命日です。
楊貴妃=楊玉環さんの生涯は白居易さんの「長恨歌」に代表される極めて多く伝説で塗り固められているため事実は判りませんが、中国古典に属する歴史書によれば719(唐代の元号で開元7)年に現在の四川省成都市の西部地域で生まれたようです。手に玉環を握って生まれたことが名前の由来とされています。出自については比類なき典雅な容貌と高い教養、優れた芸技から名門の出身とする説と姉兄や一族の強欲さと品格に欠けた言動から下層階級からの成り上がりとする説があり、幼くして両親を失って叔父に養育されたとする説と美貌に目をつけた養父が貧民の夫婦から買ったとする説まであります。
開元23(735)年に玄宗皇帝の第18皇子の妃になりますが、皇子は後ろ盾だった母親=皇后が急死したことで皇太子を巡る政争に敗れて朝臣となり、そんな中で玄宗皇帝が楊貴妃さんを見染め、関係を隠すため長安郊外の温泉宮で道教の女性道士になりました。そうして皇后の喪が明けたところで宮中に楊貴妃の道士としての宮殿を造営すると事実上の後宮として皇后と同等の地位を与えたのです。
さらに天宝4(745)載(=年)には貴妃の位階を与えられ、両親や姉兄から伯父・叔父や従兄弟まで異例の栄進を遂げ、楊一族は突発的に宮廷内での巨大な権勢を手に入れました。ところが翌・天宝5(746)載には玄宗皇帝の意に逆らって兄の屋敷に退去させられますが、楊貴妃の姿が見えなくなった途端に機嫌が悪くなり、重臣の仲裁で宮中に戻って詫びると完全に籠絡されて、以降は本人よりも楊一族の思うままに操られるようになりました。この頃になると伝説では楊貴妃は献身的に尽くしていたとされていますが玄宗皇帝は忠義の重臣たちが相次いで亡くなったこともあって宮中に宝飾品や衣装を作る工房を設けて楊貴妃を豪華に着飾らせることを堪能し、機嫌を取るために好物のライチを産地のベトナムから早馬で届けさせるなど政務に背を向け、それを楊一族が利用して専横の限りを尽くすようになっていきました。
そうして大唐に暗雲が立ちこめている中、中央アジア出身で楊貴妃の養子になっていた武将・安禄山さんが楊一族の専横に対する不満が国内に蔓延しているのを感得して乱を起こし、古都・洛陽を制圧したのに続いて帝都・長安に迫ると玄宗皇帝と皇太子(夫だった第18皇子も)は楊貴妃の出身地へ逃亡を図りますが、現在の陜西省咸陽市で楊一族を憎悪していた武将が兄と姉を殺害し、さらに乱の元凶として楊貴妃の殺害を要求しました。当然、玄宗皇帝は拒否しましたが重臣の「自死させる」と言う提案は呑まざるを得ず、結局、吊るし首で殺されたのです。この時、ベトナムからライチが届いたため玄宗皇帝は嘆き悲しみ、訃報を聞いた安禄山さんも数日間、泣き続けたといわれています。
ところが山口県長門市向津具(むかつく)の唐渡口には「乱を逃れた楊貴妃が船で流れ着いた」と言う誰も信じない伝説があり、二尊院と言う寺にはどう見ても江戸時代以降の様式の墓まで存在します。山口県人の歴史捏造癖は楊貴妃にまで及ぶようです。
  1. 2022/07/16(土) 15:32:31|
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