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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月17日・神戸洋服商夫婦殺人事件・孫斗八の死刑が執行された。

昭和38(1963)年の7月17日に神戸洋服商夫婦殺人事件の犯人で巧妙で執拗な法廷戦術で翻弄して法務当局を苦悩させた孫斗八死刑囚の吊るし首刑が執行されました。
孫死刑囚は大正15(1925)年=昭和元年になる4日前に日本の統治下だった朝鮮半島慶尚南道で生まれました。幼い頃に両親と一緒に日本本土に移住して貧困と差別の中で成長しますが(裁判での情状を求める証言)、学校の成績が良かったため昭和19(1944)年には広島工業専門学校=現在の広島大学工学部に進学することができました。
ところが日本が敗戦すると在日半島人たちは「敗戦したのは日本人で俺たちは違う」「俺たちは日本に植民地支配された被害者だ」と「三国人」を自称するようになり、占領軍も朝鮮半島南部の分離・独立と傀儡政権の樹立のために黙認したので日本の国内法を無視して警察に暴力を以って公然と反抗するようになったのです。そんな流れの中、孫死刑囚は占領軍キャンプに盗みに入って(三国人は盗難品をアメリカ製として闇市で売っていた)逮捕され、重労働6カ月の判決を受けたことで工業専門学校を中退して、折角乗った上昇気流を失って人生のどん底に転落することになりました。
事件は昭和26(1951)年1月17日の寒い夜に兵庫県神戸市生田区の洋服店に孫死刑囚がオーバー・コートを買いに現れたことから始まりました。孫死刑囚は以前この店で8000円のオーバーを買ったことがあり、店主はドンゴロス(麻袋を作る厚手の布)の上衣に労務者用のナッパズボンを穿き、裸足に女性用の下駄を履いているのを見て同情し、温かいゼンザイを振る舞い、近くの飲み屋で酒をおごり、身の上話を聞いたのです。そして「脱線せんと真っ直ぐ帰りなはれや」と言って別れましたが1時間後に孫死刑囚が再び店に現れ、応対した妻に「店主と話したい」と言ったので「もう眠っている」と断ると、勝手に部屋に上がり込んで店主を起こしましたが、熟睡していたため諦めたところで置いてあった鉄鎚が目に入って殺意が湧き、妻と店主を撲殺したと言うものです。
孫死刑囚は10日後に逮捕され、まだ永山基準がなかった時代なので「恩人2名を衝動的に殺害した」罪で死刑を求刑されました。そして昭和26(1951)年12月19日に神戸地方裁判所で死刑、昭和30(1955)年2月19日に大阪高等裁判所で控訴棄却、同年12月16日に最高裁判所の上告棄却で死刑が確定しましたが、ここから法学史に残る10数件の法廷闘争が始まります。先ず拘置所内の郵便通信に対する制限や検閲に関する刑事と行政の訴訟を起こして勝訴したのを皮切りにして、死刑についても「残虐な絞首刑は憲法違反だ」「現在の執行方法は縊首刑(いしゅけい=吊るし首刑)であって刑法が定める絞首刑ではない」と異論を唱えて後に自分が吊るし首刑になる刑場で模擬の執行を見学しました。これらの裁判が詭弁・屁理屈に近い判決で敗訴に終わると間もなく法務大臣が死刑の執行命令に署名・捺印してこの日の朝に執行されたのです。
執行の宣告を受けた孫死刑囚は「貴様ら騙し討ちにするのか、卑怯だぞ」と暴れたそうですが、実際に司法解剖された遺骸には通常の死刑囚にある眼隠しや手錠の跡はなく、腕を強く掴んだ指の痣や引きずった擦過傷、舌を噛み切ろうとした傷が残っていたそうです。
  1. 2022/07/17(日) 14:16:55|
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