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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月18日・鎌倉2代将軍・源頼家が暗殺された。

天久元(1204)年の7月18日に叔父・源範頼さまと同じ伊豆・修禅寺で2代将軍・源頼家くんが暗殺されました。満年齢で21歳でした。
頼家くんは坂東の武家の頭領としての地位を固めていた36歳の源頼朝公と正室(後の政子さん)の嫡男として寿永元(1182)年に鎌倉の乳母親の比企氏の舘で生まれました。そのまま幼少期を比企氏の舘で過ごしましたが後にこれが命取りになりました。
建久4(1193)年に富士山麓で行われた巻狩りに12歳で参加すると初めて鹿を射殺して御家人に後継者として認知され、建久6(1195)年には頼朝公が正室と姉の大姫を伴って上洛したのに同行して京都でも後継者として披露されたのです。その後は元服して(時期については吾妻鏡にも記述がなく欠落している建久7年から10年1月の間と推定されている)後継者としての教育を受けるようになり、建久9(1198)年には比企氏の娘に長男を産ませています。ところが建久10(1199)年1月18日に頼朝公が急逝したため17歳の若さで2代目の鎌倉殿(征夷大将軍を宣下されるのは3年後の建仁2=1202年)として坂東武者を統括することになりました。頼朝公は建久4年の巻狩りの最中に起こった曽我兄弟の仇討騒動を謀反と誤解した留守居役の範頼さまを謀反の疑いで殺しましたが、それで最高の中継ぎを失ったのでした。
頼家くんは比企氏でわがまま放題に育てられ、頼朝公も自らが味わってきた源氏の凋落と流人としての惨めな経験は語ることなく、権力者としての振る舞いだけを教えたため権力を行使することで御家人が受ける影響に対する認識に欠ける面があり、頼朝公を支えてきた古参の御家人13人が合議制を敷いても提言には耳を貸さず、当主にもなっていない同世代の武家の息子たちと遊び感覚のような政務を始めたため鎌倉は大混乱をきたし、そこに北条氏を追い落として実権を握ることを狙う比企氏が暗躍したため抗争が頻発して多くの尽忠の御家人が命を落としました。中でも清廉潔白な人間性と明晰で冷静沈着な判断力で頼朝公に重用されていた梶原景時さんは他の御家人たちの妬みを買って排斥され、京都へ赴く途中に現在の静岡市清水区で地元武士の襲撃を受けて殺されました。
この頃になると3男の実朝くんの乳母の政子さんの妹が頼家くんを廃して3代将軍に擁立しようと策謀するようになって頼家くんは建仁3(1203)年に首謀者として頼朝公の弟で叔父でもある政子さんの妹の夫を殺害しています。
そんな建仁3(1203)年の7月に頼家くんは病気に倒れ、8月には重篤に陥ったため祖父の北条時政さんは朝廷に将軍の交代を願い出る一方で比企氏を襲撃して一族郎党を皆殺しにしました(嫡男は母親が連れて逃げていましたが10月に殺されました)。
病気から恢復してこの事態を知った頼家くんは激怒して時政さんの追討を命じましたが従う者はなく、逆に9月7日に追放されて修禅寺に幽閉され、約1年後のこの日、入浴中に北条氏の襲撃を受けて殺害されました(絞殺らしい)。よく似た人間性(武勇に優れるが政治力はない。大の女好き)の祖父の源義朝さんも平治の乱に敗れて海路で坂東に逃亡する途中に現在の愛知県知多郡美浜町の長田忠致さんの舘で入浴中に殺されています。
  1. 2022/07/18(月) 14:45:03|
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