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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月24日・共産党の黒田了一大阪府知事の命日

2003年の明日7月24日は共産党から出馬・当選して2期を務めた=3期目は落選した黒田了一大阪府知事の命日です。92歳でした。
黒田知事は明治44(1911)年に大阪府北区大淀町で生まれました。実は明治以降の官選、敗戦後の民選を通じて初の大阪府出身の知事でした。
旧制・北野中学校、旧制・第3高等学校を卒業して東北帝国大学法学部に進学し、卒業後は母校の助手を経て満州国高等鉄路警護学校の教官として勤務している時に敗戦を迎え、5年間のシベリア抑留を経験しました。昭和25(1950)年に帰国すると大阪市立大学法学部の憲法学担当の助教授になり、昭和31(1956)年には教授に昇任して以降は大学内の学生部長、法学部長や日本学術会議「学問・思想の自由」委員会委員長、大阪護憲連合代表委員などを務めて革新勢力内で存在感を増していきました。
昭和46(1971)年の大阪府知事選挙では前年の万国博覧会の成功で圧倒的に有利と見られていた自民党の現職に挑戦する形になったため社会党と共産党の革新共闘が出馬を要請した人物が相次いで断り、革新共闘が崩壊の危機に陥ったところで「最後の切り札」として擁立されたのが黒田候補でした。このため黒田候補は告示の11日前になって社会党と共産党の大阪委員長と3人で記者会見を開き、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気に崩れ、大坂の公害は深刻化し、世界の諸都市に先駆け大阪がゴーストタウンになる」と出馬に当たっての決意を表明すると「大阪に綺麗な空を取り戻そう」と公害対策だけに特化した選挙戦を展開して予想外の逆転勝利を収めたのです。
就任後は公約通りに先ず「ビッグプラン」と名づけた公害対策に乗り出し、地域の大気汚染と企業ごとの排出ガスの詳細な実態調査を実施することで地域の汚染原因になっている企業を特定して光化学スモッグが発生すれば該当する工場の稼働の削減を勧告しました。これによって黒田府政は大気汚染の低下を実感した府民からの絶大な支持を獲得しましたが光化学スモッグは工場よりも自動車の排気ガスの方が原因として大きく、不満を募らせた企業は郊外の他県に工場を移転するようになりました。
さらに黒田府政は「郵便ポストの数ほど保育所を」「15の春は泣かせない」をキャッチ・フレースにして保育待機幼児と受験戦争の解消を打ち出し、常軌を逸した数の保育所と府立高校を増設しただけでなく(府立高校は1973年度だけでも13校)、東京都の美濃部亮吉革新都政に倣って老人と身体障害者の医療費の無料化を実行しています。
しかし、1期目の後半になると同和問題への対応を巡って革新共闘は崩壊して昭和50(1975)年の選挙では社会党が対立候補を擁立して自民党との3つ巴の選挙戦になりましたが、環境対策の実績で共産党単独支持でも圧勝したものの議会運営では完全に行き詰まり、昭和54(1979)年の3期目は「公害対策は企業の生産性を圧迫する。メダカや蛍が府税を負担してくれる訳ではない」と公言していた自民党の候補に敗れました。
最後に如何にも大阪的な黒田知事の名言を1つ。「私のことを赤(=共産主義者)だ、赤だと言う人がおりますが、私はまっこと黒だ(黒田)です」
  1. 2022/07/23(土) 15:05:12|
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