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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月26日・初代記念艦・三笠艦長・福地誠夫海将の命日

2007年の明日7月26日は海上自衛隊を定年退官後、現在は海上自衛隊横須賀基地の付属施設(建物扱い)=旧三笠艦保存所になっている記念艦・三笠の初代艦長を務めた福地誠夫(のぶお)海将の命日です。103歳でした
福地海将は日露戦争が始まる直前の明治37(1904)年2月に東京で生まれましたが本籍は佐賀県です。旧制・麻布中学校から海軍兵学校に入営しましたが、病気で1年留学したため大正14(1925)年に53期生として終了しました。53期には皇族の伏見宮博恭元帥の息子の博信大佐や同じ佐賀県人で海軍過激派の元凶・藤井斉大尉がいます。また昭和10(1935)年に海軍大学校に入校しますが、こちらの同期には操縦技量だけの飛行馬鹿の代表・源田実(敬称・肩書不要)がいて砲術畑の福地大尉とは日常的に激論を戦わしていたようです。
盧溝橋事件の勃発を受けて海軍大学校を繰り上げ卒業すると駆逐艦・夕暮の砲術長兼分隊長として杭州湾上陸作戦を支援し、5ヶ月後には山口多聞大佐が艦長だった戦艦・伊勢の分隊長に転任しています。しかし、その後は本人が太平洋方面の艦船乗務を熱望していても昭和17(1942)年6月から昭和18(1943)年10月まで主に陸軍との折衝を担当した支那艦隊司令部の参謀以外は軍令部や海軍省の東京勤務が続き、敗戦も海軍省人事局員として迎え9月5日にポツダム大佐になりました。
敗戦後は復員者の引き揚げ船の運航、機雷掃海、航路啓開などの残務処理にあたりましたが公職追放で海軍を離れると民間の船会社に就職して「海の男」を維持しました。そして昭和28(1953)年に保安庁警備隊に1等警備正(1佐に相当)として入隊すると第2幕僚監部調査部長としてアメリカ海軍の情報システムを導入し、昭和29(1954)年に警備監補(海将補に相当)に昇任して第2護衛隊群司令、海上幕僚監部総務部長、昭和33(1958)年に海将に昇任して自衛艦隊司令、横須賀地方総監を歴任して昭和36(1961)年2月に定年退官しました。
退官後は日本海海戦の連合艦隊旗艦としてトラファルガー海戦でネルソン提督が射殺されたイギリスのヴィクトリー、独立戦争で活躍したアメリカのコンスティチューションと並ぶ世界3大記念艦を標榜しながら敗戦後は見る影もなく荒廃していた戦艦・三笠の修復工事が昭和36(1961)年5月に完成するのを待って初代艦長に就任しました。
戦艦・三笠は大正12(1923)年にワシントン海軍軍縮条約で廃艦になり、関東大震災で係留されていた岸壁に衝突して破損・浸水・着底したため再稼働できない状態(甲板の下は砂で埋め、コンクリートで固められている)にすることを条件に保存されていましたが敗戦によって占領軍に接収されて「キャバレー・トーゴー」になると残っていた備品の大半は持ち去られ、甲板のチーク材やガスバーナーで切断できる鋼材も粗方盗まれるなど原形を留めない状況でした。それを耳にしたアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥が著書の印税を寄付したのに倣い国内外の有志から巨額の寄付が届き、廃艦の部品を集めて外観だけは元の状態に近づけることができたのです。
  1. 2022/07/25(月) 14:45:28|
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