昭和7(1932)年の明日7月27日は明治時代に公務としてではなく私的な無銭旅行で南極大陸を除く全ての大陸を回って「日本人ヒッチハイカーの元祖」と称される中村直吉さんの命日です。ちなみに本人は世界を飛ぶ「風船玉」と自称していました。
中村さんは慶応元(1865)年に土地柄を知っている者には信じ難いことに三河国吉田藩・現在の愛知県豊橋市の広小路呉服町で生まれました。
明治20(1887)年に福沢諭吉さんが元吉田藩士の実業家・中村道太さんと構想したアメリカ大陸への日本人移住計画を公表すると参加を希望しましたが、責任者だった井上角五郎さんが朝鮮王朝内の改革派が守旧派の排斥を図った甲申事件に関与した疑いで逮捕されたため渡航寸前で頓挫してしまいました。
それで諦めないところが両隣の遠州人と岡崎人から「根性無ししかいない」「周囲に順応するしか能がない」と揶揄されている豊橋=東三河の人間らしからぬところで、翌・明治21(1888)年に結婚直後の新妻を豊橋に残して単身でアメリカに渡ったのです。おまけに明治26(1893)年に一時帰国した以外は海外放浪を続け(一時帰国前はアメリカ国内、再渡航後はカナダを巡っていたと述べている)、日清戦争の3年後の明治31(1898)年になってようやく帰国しました。
帰国後は呉服町で帽子店を始める一方で政治活動にも参加しましたが、やはり閉鎖的な豊橋では息が詰まったのか36歳になった明治34(1901)年には帽子店は妻子に任せて10人の友人から援助でステッキ片手に世界一周の旅に出発しました。この旅ではアジア、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカ、ニュージランド、オーストラリアの60カ国を訪れて、日本人として初めてアマゾンやアフリカの奥地を探検しています。また面会した王族や貴族や著名人などから街で出会った人々にまでサインをもらったため「世界各国旅行証明簿」と名づけたサイン帳には400人以上の署名があったそうです。移動中は軍服風の詰襟の洋服の肩に「ワールド・エクスプローラー(世界探検家)」と書いた白いタスキを掛け、馬車のヒッチハイクや貨物列車の荷役になっての無賃乗車、臨時雇い船員としての乗船が専門で、知り合った人(主に在留邦人)の家で旅行の話をすることで泊めてもらう無銭宿泊の常習者でした。そうして明治40(1907)年に帰国しますが、その3年前に行われた日露戦争はどこの国で見ていたのでしょうか。
帰国後は当時の人気冒険小説作家の押川春浪さんと共編と言う形で全5巻の「五大州探検記」を出版すると絶大な支持を集め、講演依頼や旅行記の執筆要請が殺到するようになりましたが、その割に豊橋での知名度は高くありません(銅像や記念館もない)。
その後は私設移民相談所を開設する一方で政治活動=民権運動にも意欲を見せましたが、昭和3(1928)年の豊橋市議会選挙に社会民衆党から立候補すると得票数5票で落選しています。やはり豊橋では評価されなかったようです。
そして南アメリカへの移民の渡航手続きのため上京して食べたカキ氷で心臓麻痺を起こして急逝したのです。満年齢で68歳ですから当時としては後期高齢者でした。
- 2022/07/26(火) 13:41:59|
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