1886年の7月31日は天才的ピアニストとしての活躍する一方で「シンフォニック・ポエム(交響詩)」と言う音楽分野を創始したフランツ・リストさんの命日です。シンフォニック・ポエムはオペラや演劇の付属音楽を物語の予告編的に独立させていた楽曲をリストさんが音楽外の詩的・絵画的内容を表現する管弦楽曲として確立しました。
リストさんは1811年にオーストリア帝国内のハンガリー王国ドボルヤーンのオーストリア人の居住区で貴族に仕えるオーストリア系ハンガリー人の父親とオーストリア人の母親の間に生まれました。このため地域と家庭で使われていた言語はドイツ語でハンガリー人を自認していながら終生ハンガリー語を習得することはありませんでした。
ヴァイオリニストの弟を持つ父親はリストさんに音楽的教育を与え、10歳になる前から演奏会を開くなど早熟な天才少年として注目を集めるようになると1822年にはウィーンに移住してベートーヴェンさんやシューベルトさんの師であるアントニオ・サリエリさんやピアノ練習曲の作曲家として名を残すカール・チェルニーさんに師事しました。そして1823年4月13日にコンサートを開くと耳が聞こえないベートーヴェンさん(1827年没)が出席して対面することができました。
さらにその年にパリ音楽院を受験しますが志願者が多いピアノ科は外国人を受けつけておらず、已む無くパリ在住のピアニスト兼作曲家の教えを受け、1824年にはオペラを作曲しています。そうして才気煥発し始めていた1827年に父親が病没したため15歳のリストさんがピアノ教師として家族を養うことになると教え子の伯爵令嬢と恋愛関係になり、身分違いで実らなかったものの後に続く女性遍歴の幕を開きました。
1831年に「悪魔に魂を売って演奏技法を買い取った」と賞されるヴァイオリニスト・ニコロ・パガニーニさんの演奏を聞いて感銘を受け、自分もピアノで同じ道を歩むことを決意して指を開き、伸ばし、鍵盤を叩く力を増す訓練を繰り返すとやがて「指が6本ある」と噂される超絶技巧を発揮するようになりました。リストさんがピアノの前に座って譜面もなく即興で演奏を始めると声で唄い、語り、訴えるように音色が聴衆の胸に響いてきたためコンサートでは失神する女性が続出しました。一方、超絶技巧で演奏する曲を譜面に記録しようと弟子たちが記憶を頼りに演奏を試みても再現できなかったそうです。
そのような有名ピアニストになれば女性関係も華やかになり、数多くの浮名を流しましたが、中でも6歳年上の伯爵夫人とは1835年に夫と離婚させてスイスへ逃避行して10年間暮らし3人の子供を儲けています(娘はリヒャルト・ワーグーナーさんの妻になる)。1844年に伯爵元夫人と別れると再びピアニストとして活躍し、コンサートで訪れたキエフでは公爵夫人と恋愛関係になり、結婚を望みましたがリストさんがカソリック信者だったため女性を離婚させることが許されず不倫は実りませんでした。
その後は宮廷の楽団の指導者になり、「神格化」されていきますが1861年にローマに移住してからは酒浸りの生活になり、ドイツに帰国してこの日のバイロイト音楽祭で娘婿のワーグナーさんの楽曲を聞いた後、急性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなりました。
- 2022/07/30(土) 15:01:38|
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