fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月1日・「長崎事件」の発端・清国艦隊が長崎に寄港した。

明治19(1886)年の明日8月1日にロシアの極東進出に対する牽制と朝鮮・李王朝の改革派への威圧のために黄海を航行していた清国北洋艦隊の巡洋艦「超勇」「揚威」を除く戦艦「定遠」「鎮遠」、巡洋艦「済遠」、練習艦「威遠」の4隻が長崎に入港しました。
入港した「定遠」「鎮遠」の姉妹艦は排水量7355トン、全長94・5メートル、全幅18・4メートル、主砲305ミリ連装砲2基4門、副砲150ミリ砲2門のドイツ製装甲戦艦、「済遠」は排水量2355トン、全長75メートル、全幅10・5メートル、主砲210ミリ連装砲1基2門、副砲150ミリ単装砲1基のドイツ製巡洋艦、「威遠」は練習艦ですが、これは日本に対する示威と同時に「定遠」と「鎮遠」を修理できる大型ドッグが清国内にはないため長崎で整備を受けることが目的だったと言われています。
ところが8月13日になって清国の水兵500名が無許可で上陸すると大挙して長崎市内を歩き回り、泥酔して女性を追い掛け、商店の売り物を略奪するなどの乱暴狼藉を繰り広げましたが、中でも清国の売春宿とは全く違う日本の遊廓の格式を知らない一部の水兵が京都嶋原、江戸吉原、大坂新町と並ぶ長崎丸山に押しかけると待たせられたことに激昂して暴れ始め、建物や備品を破壊し、持ち出すなどの騒動を起こしたため通報を受けた丸山派出所の巡査2名が首謀者2名を逮捕して派出所に連行しました。すると市内の骨董品店で日本刀を奪った10数名の水兵たちが派出所を取り囲んだため巡査2名は警棒で応戦して逮捕すると濱町警察署に連行したのです。当時は外国人の粗暴犯を制圧するため日本人の警察官が抜刀することを恐れた外国公使の要求で外国人居留地の警察は警部以上が帯刀、巡査は警棒になっていました。
翌8月14日に長崎県知事と清国領事が会談して「清国水兵の集団での上陸は禁止する」「上陸を許す時は監督の士官を同行させる」との約定を取り決め逮捕者は清国側に引き渡されましたが、8月15日の午後になって300名の水兵が上陸すると棒を拾い、奪った日本刀で武装して派出所に押しかけ、巡査の目の前で放尿して注意されると一斉に襲い掛かりました。その集団暴行で1名が死亡、2名が重傷(1名は翌日に死亡した)を負ったため今度は人力車夫が清国水兵に殴りかかり、市民を巻き込んだ大乱闘に発展しました。通報を受けた警察は現場に急行しましたが清国水兵の人数が予想よりも多く(上陸禁止だった)、日本刀で武装しているため警察署に戻って帯剣して出直し、斬り合いの末にようやく鎮圧しました。この事件で清国士官1名が死亡して3名負傷(士官が同行しながらの蛮行だった)、清国水兵3名が死亡し50名余りが負傷、日本の警察も警部3名が負傷、巡査2名が死亡して16名が負傷、市民も10数名が負傷しました。
この事件を受けて長崎ではイギリスとフランスの弁護士を交えた話し合いが行われましたが、東京での井上聞多=馨外務大臣と中国公使の交渉の結果、責任の所在を明らかにすることなく日本側が52500円、清国側が15500円の見舞金を支払うと言う信じ難い形で決着しました。所詮、井上外務大臣はイギリスへの留学経験を毛利藩閥内で過大評価されているだけで外交能力は鹿鳴館社交レベルだったのです。
  1. 2022/07/31(日) 14:44:17|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ202 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ202>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/7813-fc469ca3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)