昭和18(1943)年の8月2日にソ連のスターリンが日本に潜入させた政治工作員・リヒャールト・ゾルゲさんと手下で近衛内閣の外交顧問として暗躍した朝日新聞の尾崎秀実記者が満州事変を拡大させ。結果的にアメリカとイギリスとの戦争に追い込まれた大謀略事件の共犯者として特別高等警察に逮捕され、一審の公判中だった沖縄県出身の画家・宮城与徳さんが持病の結核が悪化して当時は巣鴨にあった東京拘置所で死亡しました。
現在の沖縄では戦前に逮捕された政治囚は一律に軍国主義に抵抗した英雄扱いされていますが、ゾルゲ事件は反戦とは真逆の日本を共産化するための謀略に過ぎず反日の活動家たちが高い芸術性や人間的な魅力を強調しても肯定的に見てはなません。
宮城さんは明治36(1903)年に沖縄本島の現在の名護市で生まれましたが、父親は日露戦争が始まった翌年にフィリピンで道路工事に従事したのを皮切りにして明治38(1905)年にハワイ、明治39(1906)年にはカリフォルニアに移住しました。このため母方の祖母に育てられましたが、尋常小学校で担任の教員が絵を描いているのを見て興味を覚え、尋常高等小学校1年の時には作品が東京の展覧会で入選しました。それで画家を志望するようになりましたが、学業成績も優秀だったため周囲からは学費不要で将来も保障されている沖縄県師範学校を勧められて大正6(1917)年に予科に入学しました。ところが結核を発症し、翌年に本科に進んで間もなく中退しました。
すると父親に呼び寄せられる形で大正8(1919)年にカリフォルニア州に移住し、公立学校の外国人部に入学すると両親は先に移住させていた兄に預けて帰国してしまいました。すると画家への志望が再燃してサンフランシスコやロンサンゼルスを転々としながら絵の勉強を続け、1921年にはサンフランシスコのカリフォルニア州立美術学校に入学したものの州内のサンディエゴの美術学校に転校しています。
この頃、宮城さんはロサンゼルス在住の沖縄出身の青年たちの政治結社に加盟していて、さらにサンディエゴのホテル経営者の妻と駆け落ち(籍は入れずに6年間同居したが、ゾルゲ事件で先に逮捕された)しています。その一方で画家としては1928年にロサンゼルスで個展を開き、1930年には日本人画家24人で展示会を開くと美術雑誌「アート・ダイジェスト」が氏名を紹介した4名になるなどの活躍を見せています。
しかし、1931年にアメリカ共産党に入党するとソ連共産党の指示を受けて政治工作を担当するウラの党員として活動し、昭和8(1933)年10月24日にゾルゲ一派に加わるために入国し、以降はゾルゲさんや尾崎記者と連携しながら政治工作に従事しましたが、特別高等警察がアメリカの連邦警察(FBI)から入手したアメリカ共産党員の名簿と入国者の照会によって捜査対象になり、対米英戦が始まる2カ月前の昭和16(1941)年10月10日に麻布区龍土町の潜伏先で逮捕され、取り調べ中に2階の窓から投身自死を図ったものの失敗するとそれからは詳細な供述を始め、多くの工作員の逮捕に協力しました。それでも遺骨は沖縄の母親、メキシコに移住していた兄を経て1966年からは多摩霊園のゾルゲさんの墓と一緒に「事件の犠牲者」として合同埋葬されています。
- 2022/08/02(火) 14:47:48|
- 沖縄史
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