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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月3日・唐律招提=唐招提寺が開山した。

天平宝字3(759)年の8月3日に現在は唐から来日した鑑真和上が伝えた律宗の総本山になっている唐招提寺が開山しました。
鑑真和上は正当な佛戒の伝来を熱望する聖武天皇の招請を受けて日本への渡航を決意しましたが、743年に弟子の「日本の僧は海賊が化けている」と言う虚偽の通報によって出国を禁止されて1回目、744年には出航したものの暴風に遭って引き返して2回目、3回目は離唐を嫌う弟子の密告で日本人の僧が逮捕されて失敗、さらに唐王朝府の監視が厳しい黄河河口の港を避けて遠方の港からの出航を目指しましたが弟子の訴えによって阻止されて4回目、748年には出航したものの暴風に遭って14日間の漂流の末、海南島に漂着して失敗して5回目、この時、失明しました。そして753年の6度目で来日を果たしたのです。日本本土には天平勝宝5(753)年12月20日に現在の鹿児島県南薩摩市坊津町秋目に漂着して上陸し、12月26日に大宰府で迎えに来ていた奈良の大安寺の高僧と対面し、観世音寺に設けた戒壇院で授戒を行いました。
翌・天平勝宝6(754)年2月4日に奈良に到着すると東大寺にも戒壇院を設けて聖武上皇以下の400名以上に菩薩戒(在家用)を授け、下野国の薬師寺にも戒壇院を設けて日本での佛戒の継承を進めましたが、それは東大寺を頂点とする国分寺・国分尼寺の創建と並ぶ佛教による統治政策そのものであり、次第に鑑真和上の心理的負担になっていきました。すると淳任天皇は天平宝字2(758)年に名誉職の大和上を与えて国家事業から遠ざけ、僧侶として自由に振る舞える環境を整えるのと同時に平城宮からは秋篠川を隔てた場所にある天平7(735)年に亡くなった天武天皇の皇子の新田部親王の屋敷跡を与えて居住する寺としたのです(本尊さんは東大寺と同じ盧舎那佛=大日如来さま)。
鑑真和上は当初、寺名を唐律招提としましたが、この招提は唐では官立寺院以外に用いられる名称でサンスクリットのチャートゥルディシャ(四方)・サンガ(僧団組織)を意味し、「現在の僧侶だけでなく全ての僧侶のための唐の律を学ぶ僧団組織となる」との願いが込められていました。そして後に官立寺院になったことで唐招提寺に改名されたのです。
奈良時代の唐律招提には新田部親王の屋敷の遺構をそのまま流用した建物と唐の寺院を模して建立した堂宇が混在していて南大門、西南門、北土門、中門、金堂、経楼、鐘楼、講堂、八角堂が3基、食堂(じきどう)、羂索堂、僧房、小子房、温湯室、倉のうち南大門、西南門、北土門と金堂は鑑真和上と一緒に来日した弟子が造営し、講堂は平城宮からの移築、食堂は貴族の寄進、羂索堂は6度目の渡航の時、唐の役人を恐れて鑑真和上の乗船を拒否した遣唐使の屋敷からの移築です(本人は遭難して唐に戻り、帰国せずに死亡した)。また現在も残る2棟の校倉造の倉庫のうち経蔵は新田部親王の屋敷の倉庫の屋根を切妻造から寄棟造に改造したと推定されています。
奈良の寺院を中国人が見ると中国では破壊されてしまった唐時代の建物が現存しているように思うそうですが、本当に唐の寺院建築を再現している唐招提寺は圧倒的な人気を集めていて、知名度の低さから人数が少ない日本人の観光客を圧倒しているそうです。(あくまでもコロナ前)
  1. 2022/08/03(水) 14:21:07|
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