昭和20(1945)年の明日8月8日に翌日のプルトニウム爆弾の攻撃目標だった小倉の上空を厚い黒煙が覆って、結果的に投下を断念させることになった3度目の八幡空襲が行われました。
八幡市には日本有数の製鉄所があったため1回目の空襲はサイパン島の陥落によって日本本土の都市空襲が本格化する前の昭和19(1944)年6月16日に中国の成都の基地から発進したBー29×75機によって空襲され、製鉄所そのものへの被害は軽微でしたが一緒に空襲された現在の北九州市小倉区、戸畑区、門司区、若松区では270名以上が犠牲になりました。続いて昭和19(1944)年8月10日に同じく成都からのBー29×61機による2度目の空襲が実施され、製鉄所に甚大な被害を与えた一方で高射砲部隊や芦屋の陸軍航空隊などの迎撃を受けて7機が撃墜されています。
そして日本全国の主要都市がサイパン島を含むマリアナ諸島の航空基地からの連日の空襲に晒されていた昭和20(1945)年8月8日に破壊し残していた製鉄所周辺の市街地を焼き尽くすためBー29×221機に焼夷弾の在庫を搭載して来襲すると45万発以上を投下して現在の八幡東区と西区、若松区、戸畑区の21パーセントを炎上させ、硫黄島から護衛として合流したPー47サンダーボルト戦闘機が低空飛行して逃げ惑う市民を銃撃したため市民約2900人が犠牲になりました。中でも八幡東区小伊藤山の横山防空壕では周辺の大火災で発生した一酸化炭素によって避難民約300人が窒息死しています。
このような惨状では消火活動は実施できず、破壊されて廃材となった木造建築の家屋や商店はそれでなくても消火が困難な焼夷弾の油脂燃料成分を受けて燃え続け、折からの西風で巨大な黒煙が小倉方向に広がったのです。
8月9日の朝について地上の日本人は「日の出後も夏の日差しが遮られる薄暗い状態だった」と証言している一方で2発目の原爆投下の前に気象偵察のために小倉上空に飛来したアメリカ軍の観測機は「朝靄(もや)がかかっているがすぐに快晴が期待できる」と報告しています。この報告を受けてプルトニウム爆弾・フットマンを搭載したBー29=機体名・ボックスカーは屋久島上空から豊後水道を北上し、大分県姫島から小倉に向かいましたが「上空を靄若しく煙が厚く覆っているため目標の視認は不可能」と報告し、しかも小月の陸軍航空隊、築城の海軍航空隊の迎撃機が攻撃してきたので離脱を余儀なくされ、逃走の途中で第2目標の長崎に投下したのです。
それにしても8月9日に小倉に原子爆弾を投下する計画があれば前日に近隣地域を焼夷弾で空襲して大火災を発生させるのは愚の骨頂と言わざるを得ません。結局、原子爆弾の投下命令はハリー・S トルーマン大統領のサインでも通常の都市空襲の命令は陸軍第20航空軍司令官・H・F.トゥイニング少将のサインなので同じサイパン島を発進しても両者に情報の共有はなく、作戦の連携や調整も図られていなかったことが判ります。
ただし、被害範囲の人口が広島よりも多かった小倉にヒロシマのウラン爆弾の1・5倍の威力を持つプルトニウム爆弾が投下されなかったことは人命の損失と言う意味で幸いではありました。
- 2022/08/07(日) 14:54:48|
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