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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月8日・日本の反ユダヤ主義の首魁・四王天延孝中将の命日

昭和37(1962)年の8月8日はナチス・ドイツに迎合しただけでなく独自の見解から日本の反ユダヤ主義を主導した四王天(しおうでん)延孝中将の命日です。
四王天中将は明治12(1879)年に旧・前橋藩士の家庭に生まれ、旧・川越藩士の四王天家の養嗣子になりました。明治32(1899)年に11期生として陸軍士官学校を修了すると近衛工兵大隊で工兵少尉に任官しました。日露戦争が勃発すると近衛工兵大隊の中隊長として出征し、終戦後は陸軍士官学校の教官を務め、近衛工兵大隊から陸軍大学校21期に入校して明治42(1909)年に終了しました。
第1次世界大戦ではフランス軍に従軍し、大正9(1920)年からはシベリア出兵に出征し、そのまま関東軍司令部付としてハルピン特務機関長を務めました。この時の経験で国際社会の背景を研究するようになったようです。
大正11(1922)年からは陸軍航空学校の教官になり(操縦は第1次世界大戦中に体験した程度と言われているが真偽不明)、以降は航空畑も兼業になりました。
大正13(1924)年に少将に昇任すると航空畑として兵器本廠付、国際連盟空軍代表、さらに同陸軍代表、豊予要塞司令官、第16師団司令部付、第3師団司令部付を歴任しますが、昭和4(1929)年に中将に昇任すると予備役に編入されました。
その一方で現役だった昭和3(1928)年にスターリンの世界共産革命戦略を解説した「第3インターナショナルに就て」を出版したのを皮切りに昭和7(1932)年には「戦争か平和か」、昭和8(1933)年に「フリーメーソン秘密結社に就いて」と「社会主義・共産主義の実情」「国際連盟の実情」の3冊、昭和10(1935)年には「欧州政局の混乱と国防に就て」、昭和11(1936)年に「第2次世界大戦来と我国防」、昭和12(1937)年に「メーデーとフリーメーソンの正体」と「時局と航空」の2冊の国際情勢を独自に分析した本を立て続けに出版しますが、日本が第2次世界大戦に参戦する直前の昭和16(1941)年には「猶太思想及運動・シオンの議定書の邦訳付=1987年再販時の題『ユダヤ思想及運動』」を出版して日本における反ユダヤ運動を指導するようになり、昭和17(1942)年にも「四王天延孝清話」と「World War and Jewish people=世界大戦とユダヤ人」を出版しました。
当時は陸軍を中心にナチスのユダヤ人弾圧に迎合した摘発を要求する声が出始めていましたが四王天中将の主張は趣旨が異なり、古代から現代に至るまでの西欧・中東の国家の存亡の影で帰属意識を持たないユダヤ人が暗躍し、自己の利得だけで謀略を巡らせてきたことを検証して日本からも排除するべきだとの結論に至ったのです。
昭和17(1942)年の翼賛選挙に出馬して当選すると昭和19(1944)年の帝国議会では陸軍士官学校の同期で東條英機内閣の安藤紀三郎内務大臣を追及して「日本国は太古から人種差別国家であってユダヤ人差別にも反対しない」との答弁を引き出しています。これが敗戦後に問題になってA級戦犯として逮捕されますが、昭和22(1947)年に釈放されると「日本反ユダヤ協会」会長などを務めました。
  1. 2022/08/08(月) 15:22:42|
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