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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月11日・原爆の5日後に広島県の呉軍港が空襲された。

広島市が原子爆弾によって壊滅した5日後の昭和20(1945)年8月11日に20数キロの距離で隣接する呉軍港が空襲されました。
呉市の公式記録では呉軍港と呉海軍工廠(=造船と整備用ドック)は昭和20(1945)年3月19日、6月22日、7月24日から25日、7月28日から29日の4回、呉市内も5月5日の広島陸軍工廠、7月1日と2日の市街地の2回と計6回の空襲を受けたことになっていますが、この日の空襲については何故か記載されていません。
また海上自衛隊は近年、帝国海軍の復活を標榜して「伝統墨守」「唯我独尊」と呼ばれていた以前の隊風とは逆に帝国海軍臭を払拭することに躍起になっているため帝国海軍の戦争殉難者の慰霊行事も放棄していて記憶と記録が同時進行で消えていきそうです。
そんな中で2007年1月から2009年1月まで漫画アクションに連載されたこうの史代さんの漫画「この世の片隅で」では主人公が広島市の原爆を呉市から傍観した後、多くの被爆者が運び込まれていた呉市が空襲される場面が描かれていました。なお「この世の片隅で」は片渕須直監督で2019年公開のアニメ映画になっています。
呉軍港の空襲については軍港だけにマリアナ群島から発進する陸軍航空軍のB-29ではなく沖縄方面で行動していた空母艦隊が日本に接近して発艦させた艦載機で、沖縄上陸直前の3月19日にはミッチャー提督の第58任務部隊の約350機、沖縄陥落後の7月の2回はハルゼー提督の第38任務部隊の950機の大編隊でした。
これに対して日本海軍も港外に出航して艦砲射撃で応戦しましたが、狭い瀬戸内海で多数の艦艇が回避行動を取るのには限界があり、次々に標的となって敗戦までに戦艦3隻沈没(榛名・伊勢・日向)、航空母艦1隻沈没=横転座礁(天城)・3隻損傷(葛城・鳳翔・龍鳳)、巡洋艦5隻沈没(磐手・出雲・青葉・利根・大淀)・2隻損傷(北上・八雲)、駆逐艦1隻沈没(梨)・3隻損傷(宵月・樺・朝顔)の大損害を受け、人的にも約780名が戦死、約2000名が戦傷を負い、さらに造船・修理用のドックを破壊され、瀬戸内海に機雷を敷設されたため軍港としての機能を喪失しました。
また対岸の松山には紫電改の海軍第343航空隊が配備され、昭和20(1945)年1月からは広島出身の自己顕示欲の権化・誇大宣伝の名手の源田実(敬称・階級・肩書不要)が司令官に着任し、敗戦後には関係者が戦死していることを好いことに「傑作戦闘機・紫電改に精鋭パイロットが搭乗した第343航空隊は来襲するアメリカ軍機を全く寄せつけなかった」と語って自分を英雄に祭り上げる著作物や映画を発表していますが、源田が58機撃墜と述べている3月19日の空襲のアメリカ軍側の発表は14機と4分の1です。
8月11日の空襲ではそれまでに損傷して港内に係留してあった多くの艦艇がトドメのように撃沈・沈底していて、無傷だった全長122メートルで水上機・晴嵐3機を搭載できるため潜水空母と呼ばれていた伊402も被弾しました。同型艦の伊404は7月28日の空襲で大破し、技術保全のため沖で自沈されましたが昭和26(1951)年に引き揚げられて、どちらもアメリカ軍が検証した後に深海に自沈処分されました。
  1. 2022/08/10(水) 15:34:13|
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