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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月13日・ナチスでもポーランドの偉人・ホーゼンフェルト大尉の命日

1952年の明日8月13日はソ連には根拠もなくスパイと決めつけられて戦争重罪人の収容所で過酷な拷問を受けて獄中死した一方でポーランドやイスラエルではユダヤ人を救った偉人とされているナチス・ドイツ軍のウィルム・ホーゼンフェルト大尉の命日です。
ホーゼンフェルト大尉は1895年にドイツ中央のフルダ近郊のマッケンチェルで敬虔なカソリック教徒の教師の9人兄姉弟妹の4番目の子供として生れました。やや成長するとフルダのカソリック師範学校に入学し、そこでピクニックなどの野外活動にギターやハーモニカのような軽い楽器を持って行って合唱し、フォークダンスを踊るワンダーフォーゲルに傾倒して(日本ではロック・クライミングしない徒歩のみの登山種目を指す)、健全で健康的な学生生活=青春時代を過ごしました。
ところが卒業と同時に第1次世界大戦が勃発して1914年8月にプロイセン陸軍歩兵第167連隊に入営すると1916年に負傷して最下級の勲章を授与されましたが1917年の2度目の負傷では前線勤務不適格と判定されて准尉・曹長として除隊しました。
1918年11月11日に第1次世界大戦が終結すると地元ヘッセンの村で教師になり、1920年には画家の娘と結婚しました。ホーゼンフェルト大尉はカソリックとワンダーフォーゲルによるプロイセン的愛国心の持ち主でしたが、芸術家の娘の妻は自由と平和を愛する反体制的な思想傾向で次第に影響を受けるようになっていきました。
ところが1930年代に入るとワンダーフォーゲルの活動を通じて反ブルジョア主義者や国家社会主義者と接触を持ったためナチズムに共鳴するようになり、1933年にはナチス党の突撃隊と国家社会主義教師同盟に加入しました。しかし、盲目的にナチズムに染まった訳ではなく1935年にはナチスの思想的指導者・ローゼンベルクさんの著書を批判して減給処分を受け、1938年11月9日と10日のナチス突撃隊によるユダヤ人市民の迫害=水晶の夜事件に反発してナチス系新聞の購読を止めています。
それでも1939年9月1日に第2次世界大戦が勃発すると44歳だったにも関わらず徴兵検査を受け、条件付き合格の判定を受けて曹長として陸軍に復帰するとナチス・ドイツとソ連が分割占領したポーランドに赴任して捕虜収容所の建設と運営を担当しました。
ポーランドではナチス・ドイツ軍と武装親衛隊やソ連軍の傍若無人な振る舞いに嫌悪感を覚え、収容所内では社会正義を実現するように努力するようになりました。
1940年4月に少尉に任官するとワルシャワの軍の施設管理とスポーツ行事の運営を命ぜられて占領地での教育を担当するようになり、ここでユダヤ系を含む多くのポーランド人を雇ってナチスのユダヤ人狩りから守りました。
ところが大尉の中隊長としてソ連軍の捕虜になると1943年にベルリンの参謀本部で短期間勤務してポーランドに戻っていることからスパイ容疑をかけられ、収容所では過酷な拷問を受け、懲罰労働を課せられて何度目かの脳卒中で死亡したのです。2000年代になってホーゼンフェルト大尉を顕彰する運動が起こりましたが、ドイツはソ連の有罪刑を尊重して拒否し、ポーランドとイスラエルは「社会正義の実践者」の称号を贈与しました。
  1. 2022/08/12(金) 14:57:47|
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