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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月17日・外交官的陸軍軍人・小野寺信少将の命日

昭和62(1987)年の明日8月17日はナチス・ドイツ一辺倒に陥っていた帝国陸軍の中で卓越した外交官的手腕を発揮した小野寺信(まこと)少将の命日です。
小野寺少将は明治30(1897)年に岩手県丹沢郡前沢町で町役場の助役の長男として生れました。しかし、12歳で父親が病没したため本家筋の農家の養子になり、旧制・遠野中学校を経て仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校から陸軍士官学校に第31期生として入校して大正8(1919)年に修了しました。士官学校では上位5位までに恩賜の軍刀が下賜されましたが6位で逃しました。すると旧藩主家の当主から銘刀を贈与されたため軍刀がサーベルから日本刀に変更された時点で拵えを変えて愛用したようです。
卒業後は仙台にあった歩兵第29連隊に配属され、大正9(1920)年にアムール川河口のニコラエフスクでソ連共産党軍が住民を虐殺する事件が発生すると第29連隊は住民保護の目的で現地の保障占領(目的達成後に撤退する一時占領)に派遣されて小野寺少尉も最初で最後の戦争体験をするのと同時にロシア語を習得しました。
帰国後は陸軍大学校を修了して会津若松に移駐していた歩兵第29連隊の中隊長になりましたが、外国駐在試験を受験するとロシア語の能力を見込まれて歩兵学校の教官になり、教務の傍らソ連共産党軍の研究に取り組むようになってソ連の専門家として注目されるようになりました。昭和7(1932)年に陸軍大学校教官に転任すると急速に機械化を進めるソ連軍の脅威を公言するようになり、在任半年で陸軍参謀本部第2部ロシア班に引き抜かれました。この頃、自費出版したソ連軍とアメリカ軍、中国国民党軍などの研究書は若手将校の間でベストセラーになり、参謀本部では必要経費を自前で済ませていたため「儲け過ぎだ」と叱責を受けています。
昭和10(1935)年には少佐でバルト3国のラトビア駐在武官に発令されますが、バルト3国はソ連を外から展望する最前線の監視所であるにも関わらず日本の領事館は小規模で駐在武官に補佐官も付いていない状態でした。そこで外務省と陸軍に要請して3国の駐在武官を兼務することで動かせる予算を倍増させて独自に諜報要員を雇用し、潜入手段を改良するなど大いに活躍しました。しかし、昭和13(1938)年に帰国すると満州国とソ連の領土紛争の対処を命ぜられますが、参謀本部内の対ソ、対中の認識の相違に苦慮させられた挙句に陸軍大学校教官に今度は左遷されました(前回は栄転)。
そして昭和15(1940)年に中立国のスウェーデン駐在武官に発令されると1945年2月上旬にソ連領ヤルタで開かれたアメリカ・ルーズベルト大統領とイギリス・チャーチル首相、ソ連のスターリン書記長の会談の密約を掴み、「ナチス・ドイツの降伏後にソ連は日ソ不可侵条約を破棄して対日参戦する」と警告するなどドイツ、ソ連両国の客観的情報を送り続け、ナチス・ドイツとの合同降伏を模索しましたが日本は最後までソ連に和平工作の仲介を期待する愚かさを保ったまま敗戦を迎えました。
敗戦後の昭和21(1946)年3月に帰国すると7月まで戦犯として巣鴨プリズンに収監されますが、その後は妻と共同で多くのスウェーデン書籍を翻訳しています。
  1. 2022/08/16(火) 15:07:58|
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