日本が9月2日に敗戦する直前の1945年の明日8月18日に武力闘争によるインド独立運動を指導していたスバス・チャンドラ・ボースさんが日本軍機の事故で死亡したことになっています。ただし、インドではこの事故死は信じられておらず国家機関や政府要人による調査が繰り返されています。
ボースさんは1897年にインドのベンガルで弁護士の息子として生れました。幼い頃から父親の仕事を通じてイギリス人に酷使されているインド人の苦境を直視することになり、父親と同じ弁護士としてインド人の救済に当たろうとカルカッタ大学で法学を学び、卒業後は両親の希望でケンブリッジ大学院に修士留学しました。大学院では近代ヨーロッパの国際関係に対する軍事力の役割について研究しています。
1920年にインド高等文官試験を受験しましたが、本人は「合格したがイギリスの傀儡になるのを嫌って返上した」と言っています(経歴が伝説化していて真偽不明)。この頃からマハトマ・ガンジーさまの不服従非暴力のインド独立運動に参加するようになりましたが、間もなく「ガンジーの運動は高遠な哲学ではあるが、世界各国が非武装の政策を心より受け入れない限り現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」と確信しました。
こうしてイギリスとの対立軸としてイタリアのファシズムとソ連のマルキシズムを利用することを決めましたがインド国内での取り締まりが厳しくなり、ガンジーさまからも距離を置かれたため1939年9月1日の第2次世界大戦の勃発を「イギリスの衰退の始まり=インドが独立する好機」としてアフガニスタン経由でナチス・ドイツに亡命したのです。しかし、ナチス・ドイツではヒトラー総統に接触できたものの有色人種への差別意識が強く、インドの独立には消極的だったため失意のうちにベルリンで与えられた邸宅でオーストリア人の妻と過していた時、日本の参戦とマレー半島上陸、侵攻、シンガポール占領のニュースを聞いて同じアジア人の国家である日本に期待するようになったのです。そして1943年4月28日に喜望峰を迂回したマダガスカル島沖のインド洋までドイツのUボートで送られ、日本の伊29に迎えられて来日を果たしました。
当時、シンガポールを中心とする東南アジアではインドからの志願者とマレー半島やシンガポール、香港で捕虜になったインド人将兵によるインド国民軍が結成されていましたが、指導者の路線対立で分裂の危機にあり、ボースさんは卓越した指導者として迎え入れられました。またボースさんと東京で会談した東條英機首相は心酔してしまい大東亜協栄圏構想にインド独立を加えて、イギリス軍の反抗が始まっていた中で南方軍にインドへの侵攻=インパール作戦を実施させました。
結局、インパール作戦は失敗に終わり、日本も敗戦しましたが台湾にいたボースさんは陸軍の松山基地から大連に向かう97式重爆撃機に搭乗して離陸中に左プロペラが外れて落下炎上、全身火傷を負って台北市内の陸軍病院に収容され、衛生兵が作ったカレーライスを口にしながら死亡したとされています。

かわぐちかいじ作「ジパング」より
- 2022/08/17(水) 15:35:13|
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