明治34(1901)年の明日8月19日に明の元号・成化4年=日本の元号・応仁2(1468)年に伊是名島の農民から王位に就いた初代・尚円王以来、410年間19代にわたって王位を維持してきた最後の琉球王・尚泰王が崩御しました。
尚泰王は清の元号・道光23年=日本の元号・天保14(1843)年に首里で尚育王の第2王子として生れましたが、兄の第1王子が翌年に8歳で早逝したため王太子になると、欧米列強の来航などの国事多難に苦しんだ父王が清の元号・道光27年=日本の元号・弘化4年に34歳の若さで崩御して4歳で即位しました。
そんな幼王の治世は父王以上の困難を極め、清の元号・咸豊3年=日本の元号・嘉永5(1853)年にはペリーの艦隊が浦賀へ向かう途中で寄航し、島津藩の支配下にありながら徳川幕府と同じ嘉永6(1854)年に琉米修好条約を締結しています。その後、嘉永7(1855)年に琉仏修好条約、安政5(1859)年には琉蘭修好条約を結んでいますからそれまでの日本と朝貢を続けていた明朝・清朝に加えて欧米の列強諸国にも独立国として認知されたことになります。
しかし、琉球王国を長年支配してきた島津と卑しさを藩風とする毛利が主導する明治政府が放っておくはずがなく、本土では明治2(1869)年6月17日に274大名の版籍奉還が行われ、暫定的措置として藩主が知藩事としながら明治4(1871)年7月14日に廃藩置県を断行して国家が任命する府道県知事(当初は東京も府だった)に地方行政を担当させて沖縄を除く日本全土に国家直轄の政治体制を確立したのです。
続いて明治政府は明治5(1872)年に尚泰王を勝手に琉球藩主に任命(独立国から属領への格下げ)するのと同時に華族に列して東京に与えた藩邸への移住を命じました。そうして明治7(1871)年に首里に年貢を納めた帰路に遭難した宮古島の船乗りたちが台湾に漂着しながら54名が虐殺された事件に出兵して懲罰を加え、琉球王国の支配者が日本であることを内外に示し、明治10(1877)年の西南戦争の終結を以って廃藩置県の混乱は沈静化したと判断すると清の元号・光緒4年=日本の元号・明治12(1879)年に廃藩置県を琉球藩にも適用して56歳になっていた尚泰王から藩主の座と首里城まで奪って島津藩士出身の大迫貞清沖縄県知事を任命したのです。
尚泰王は当初、中城の別邸に移りましたが明治政府から否応もなく東京常住を強制され、明治18(1885)年の華族令によって上から2番目の侯爵に叙せられ(尾張藩主・徳川家、紀州藩主・徳川家、福井藩主・松平家、広島藩主・浅野家、岡山藩主・池田家、福岡藩主・黒田家、秋田藩主・佐竹家、佐賀藩主・鍋島家、徳島藩主・蜂須賀家、熊本藩主・細川家、加賀藩主・前田家、土佐藩主・山内家、宇和島藩主・伊達家と同格でも併合後の朝鮮王は皇族扱いだった)、明治23(1890)年に議会が開設されると貴族院議員になりましたが、この日に急性腸カタルで崩御したのです。
墓所は首里にある第2尚王家歴代の玉陵(たまうどぅん)で、慶長14(1609)年に島津の侵攻を受けた7代・尚寧王のように祖先にはばかることはなかったようです。
- 2022/08/18(木) 16:05:43|
- 沖縄史
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