大正6(1917)年の明日8月20日は司馬遼太郎先生の時代小説「侠客万助珍談」と「俄浪華遊侠伝」の主人公のモデルになった幕末から明治に活躍した実在の侠客・小林佐兵衛=明石屋万吉親分の命日です。
万吉親分は他にも宮尾登美子さんの「鬼龍院花子の生涯」では鬼龍院松五郎が若い頃に大阪で世話になった親分、さらに本宮ひろ志さんの「男一匹ガキ大将」の戸川万吉のモデルとも言われていますが、現在では反社会組織・指定暴力団のトップです。
万吉親分は文政12(1829)年に大坂は堂島中町船大工町の質屋・明石屋に養子に入っていた元幕臣の長男として生れました。万吉はこの頃の幼名です。司馬作品によれば父親は幕臣でも各藩の蔵屋敷が建ち並ぶ大坂で情報を収集するために潜伏していた公儀隠密で、任務のためなのか(職務離脱では秘密保全のために抹殺される)質屋の養子に入ったことになっています。しかし、商才は全くない上、飲み・打つ・買うの遊び人だったため養家に離縁され、手切れ金を元手に金貸し業を始めますが大火で宮家御用の証である提灯が焼失して生業を失いました。そのため万吉親分が8歳で丁稚奉公に出ましたが、父親は母親と幼い妹を残して出奔したため9歳から賭場荒しで稼ぐようになり、15歳になった頃には組を構え、子分を抱える親分になり、やがて米の相場屋の依頼で公儀の米の買い上げを潰す一方で買い占める仲買人に殴り込みをかけて米価の上昇・下落に関与して資産を蓄えるようになりました。
こうして任侠界で名を売ると幕末の混乱に出演が回ってきて、文久3(1963)年に播磨国小野藩から15扶持の俸禄で足軽頭にスカウトされたのです。当時、将軍職後見人だった一橋慶喜さんが外国船の来航に怯える孝明天皇に大坂地区の湾岸と河川の防備を命じられて各藩に分担させていたのですが、禄高2万8千石でも2万3千石は伊予の分与領で実際は5千石に過ぎなかった小野藩には荷が重く、すがるような気持ちで侠客を雇ったのです。尤も一橋さんも上洛の折には江戸町火消し「を」組の辰五郎親分に護衛を依頼していますから流石に幕府も非難できなかったでしょう。
この防護を引き受けるに当たり万吉親分は担当区域の尻無川一帯を縄張りとする親分に借用の筋を通し、保証人になった会津小鉄の仙吉親分から大坂の北地区の支配を認められ、組の印である瓢箪を2つに割って与えられたので以降「中割北瓢箪」を印にしました。
世が明治になると明治6(1873)年には消防請負制度の導入を受けて縄張りの北地区の大組頭取に任命され、「天満焼け」とも呼ばれる明治42(1909)年7月31日から8月1日の「北の大火」では80歳の老身で消火の陣頭指揮を執り、被災者を自宅で保護するなどの侠客としての任を果たすようになっていきました。
それからは米相場で儲けた資金で授産所を設立し、浮浪者や生活困窮者の技術教育や職業訓練と社会復帰に取り組みましたが晩年には資金を使い果たして困窮の中で89年の生涯を終えたのです。それでも明治44(1911)年9月には米価の高騰に苦しむ人々を見て取引所に乗り込んで吊り上がった相場を崩壊させています。
- 2022/08/19(金) 14:09:42|
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