正徳4(1714)年の明日8月21日(太陰暦)は現代の医学や栄養学では疑問を符せられることが多いものの日本古来の食事や生活上の心得として指導されることがある「養生訓」の著者・貝原益軒先生の命日です。
野僧が中学生の時、焼き肉屋に外食して「肉を沢山食べたから野菜も食べないと」と言いながら玉葱やキャベツを網にのせると父親から「クダラナイことを考えながら食べても身にならん。美味しいと思いながら食べるから滋養強壮の元になるのだ」と叱責されたことがありました。父親にしては珍しく古典的な教訓だったので祖父に話すと「それは養生訓の聞きかじりだな」と言いながら岩波文庫の「養生訓」を貸してくれました。すると確かにそれに類する教訓はありましたが、それは「気分よく快食することの勧め」で、むしろ野僧のように健康を考えて食べることを指導していました。
貝原先生は寛永7(1630)年に筑前国黒田藩の祐筆の5男として生れました。幼い頃から病弱で和漢古今の蔵書を読書しながら成長すると18歳で藩に出仕することができましたが、30歳だった寛永9(1632)年に黒田騒動(「軍師官兵衛」に登場する重臣が起こしたお家騒動)を経験しながらもわがままな性質が年老いても改まらない2代藩主・忠之さんの怒りに触れて藩籍・俸禄を失い、忠之さんが亡くなるまで7年間城下に住んだままの浪人生活を送りました。明暦2(1656)年に3代藩主・光之さんに藩医として再雇用されて翌年から藩費で京都に国内留学して本草学(植物学と言うよりも漢方の薬草学)と朱子学を学ぶことになりました。こちらも7年間の国内留学を終えて帰藩すると高い学識を認められて藩医だけでなく朱子学の教授として150石の知行を与えられて博多に来航する朝鮮使節の接待や鍋島藩との境界線を巡る交渉も担当しました。
39歳で友人の支藩の秋月藩医の17歳の姪と結婚すると4代藩主・綱政さんから現在の福岡市荒戸区に屋敷を与えられ、寛文11(1671)年からは主命によって「黒田家譜」の編纂に着手し、完成した元禄元(1688)年には「筑前国続風土記」の編纂を願い出て歌人でもあり文才に長けた妻を伴って藩内の全ての集落を巡り歩いて元禄16(1703)年に完成させました。=宝永6(1709)年に改訂版を出している。
そうして当時の平均寿命を大幅に上回る83歳になり、幼い頃から病弱だったにも関わらず充実した人生を送られた教訓を後世に残すべく正徳2(1712)年に筆を執ったのが「養生訓」でした。「養生訓」の最大の特徴は身体だけでなく精神の健康も並立させていることで、孟子が説く「三楽(道を行い、善行を楽しむ・病を避け、健康な日常を楽しむ・長寿を楽しむ)」を強調すると共にその心得として「食欲・色欲=性欲・睡眠欲・多弁」を抑制することを指導しています。「養生訓」を読むと父親の実家を含めて旧家の躾の根拠が得心できてしまいます。
貝原先生はこの2年後に亡くなり、同じく病弱だった妻はその8カ月前の正徳3年末に62歳で亡くなっています。病弱だった2人の間に子供は生まれず、奉行を務めた兄の貝原楽軒さんの息子を養子に迎えて家督を継がせています。
- 2022/08/20(土) 15:17:48|
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