昭和20(1945)年の明日8月22日に本来は1年間の猶予期間が定められていた日ソ不可侵条約をヤルタ会談の密約で一方的に破棄して8月9日の満洲に続いて8月11日に樺太に侵攻していたソ連軍が予想外の日本軍の抵抗に苦戦しながらも辿り着いた南部の府庁所在地・豊原(現在のユジノ・サハリンスク)を空襲して多くの犠牲者を出しました。
ソ連軍は日本軍最強と言われながらもノモンハン事変で戦車などの機械力の格差を確認して「恐るるに足らず」と見下していた満州の関東軍については7月1日に大本営参謀から転属してきた瀬島龍三中佐から日本の敗戦が近いことを伝えられて士気を喪失していたため予想通り8月9日の侵攻開始の第一報を受けると満蒙開拓団の文民を置き去りにして急速に後退・敗走し占領していました。ソ連軍は満蒙開拓団の集落を占領すると住民を広場に集めて生理がある=性行為に使えなる女性とない男性、老女幼女に分け、後者は多くの場合機関銃を乱射して皆殺しにして、弾薬不足の時には銃剣で刺し殺しました。その現場を見せられて絶望している女性たちを夫や父親、我が子の遺骸の横で輪姦を飽きるまで続けた後、同様に殺害しましたが散々に味わった女性器を銃剣で突き刺して殺す加虐趣味の兵隊も珍しくなかったようです。
一方、樺太と千島を含む北海道を守る北方軍はおそらく第2次世界大戦中の日本陸軍では最高の名将である樋口季一郎中将が司令官で日本がポツダム宣言を受諾して8月15日に停戦が発効してもそれは双方の紳士協定に過ぎず、国際法に反する事態が生起すれば躊躇なく自衛措置を行使するように命じていて、実際に8月11日の樺太侵攻、8月18日の千島の最北端・占守島への侵攻に対しては徹底抗戦しています。ただし、樺太の日本軍は市街地を捨てて郊外の山林に陣地を構築しての遊撃戦を採用したためソ連軍は無抵抗で市街地や集落を占領し、満洲や現在のウクライナと同様の行為を繰り返しました。
そのためソ連軍が前進した後に集落に入った生存者が惨状を豊原の樺太庁や第88師団司令部に報告する電話を傍聴した真岡郵便局の女性電話交換手10名が職務離脱と凌辱を拒みソ連軍が迫った8月20日に集団服毒自死して9名が死亡しています。
なお、ソ連軍の公式記録には「真岡市内の戦闘で地下室に立て篭もる日本軍を掃討して300名以上を殺害し、600名以上を捕虜にした」とありますが日本軍は住民を巻き込むこと避けて真岡市内には配置されておらず、これは地下室に避難していた文民を虐殺した事実を正当化するための虚偽報告でしょう。
そしてこの日、ソ連軍は停戦後に船で北海道へ移動するため豊原駅前広場に集結していた避難民たちに繰り返し機銃掃射を浴びせ、周囲の住宅地に大量の焼夷弾を撒いたのです。その結果、400戸以上が焼失し、1000人以上(実数不明)の避難民が死亡しました。この時、豊原では駅舎と文民の住宅に白旗を掲げ、広場の救護所には赤十字の対空表示も設けてありましたが、重大な戦争犯罪である文民虐殺を常習しているソ連軍にジュネーブ条約に基づく高度な戦争法規の遵守を期待しても無駄だったようです。そもそもジュネーブ条約が制定された発端はロシア軍とトルコ軍のクリミア戦争の惨状でした。
- 2022/08/21(日) 16:35:36|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0