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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月22日・「欧州の天地は複雑怪奇」平沼騏一郎首相の命日

昭和27(1952)年の8月22日に敗戦後、A級戦犯として終身刑の判決を受けていたものの病気のため仮出所していた平沼騏一郎首相が84歳で亡くなりました。
平沼首相は慶応3(1867)年に現在の岡山県津山市で津山藩士の二男として生れました。明治4(1972)年に5歳で上京すると津山藩士の学者が開いた私塾で英語・漢文・算術を学び、明治11(1878)年に東京大学予備門に入学しましたが、卒業時に「明治16年事件(寄宿舎で生活する学生が自治への制限に不満を持ち、学位授与式を拒否して野外で催した宴会で酩酊して暴れた騒動)」の首謀者の1人になりました。それでも若手官僚の確保が困難になることを恐れた文部省の配慮で帝国大学法科に進学し、明治21(1888)年に司法省に入省して首都圏の裁判所の判事や検事を歴任しました。
そうして明治36(1903)年に司法省参事官兼検事になると法務官僚としても辣腕を奮うようになって明治40(1907)年には欧米各国の司法制度を調査して翌年に刑法の全面改定=現在の刑法を制定しています。その一方で歴代内閣に司法大臣として入閣して政界への影響力が大きくなり、美濃部達吉博士の「天皇機関説」が法曹界から政界まで巻き込む大論争になると反対する立場の思想結社・国本会の会長に就任しています。この国本会が後に漢学振興運動を標榜する大東文化大学を創設しました。
ところが大正期の政党政治は理念よりも数合わせを優先して機能不全に陥り、人材が枯渇していたにも関わらずヨーロッパかぶれの西園寺公望元老の好き嫌いで首相が選任されていて国粋主義的言動を嫌われていた平沼さんには首相の指名は回ってきませんでした。
この事態に平沼首相は西園寺元老が育成した立憲政友会を潰すため後に被告人全員が無罪になって「検察ファッショ」と呼ばれる帝人事件を起こして齊藤内閣を総辞職、西園寺元老を引退に追い込み、枢密院議長を経て昭和14(1939)年1月に念願の内閣総理大臣に就任したのです(第1次近衛内閣で満州事変に直面して欧米式に政治が軍を統制する必要性を痛感していた)。
首相就任後は国粋主義的な政治信条を堅持して西欧式自由主義やファシズムは拒絶しながらも暴力革命による国家変革を主張するマルクス主義の壊滅を至上命題として治安維持法の取り締まり対象の拡大を図って政治犯の摘発を強化しました。さらに陸軍の若手将校が絶大に支持していたナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー政権がマルクス主義の撲滅を進めていることに協調して後の三国同盟につながる日独によってソ連を挟み討ちにする世界戦略を模索しましたが、国内外の政治情勢は誰かが仕掛けたかのような急展開を見せました。先ず陸軍が戦線拡大し続けている中国国内の武力紛争を外交的に終息させようとして失敗、続いて8月20日に関東軍がノモンハンでソ連軍と交戦して大敗を喫し、とどめにヒトラー政権が8月23日に宿敵であるはずのソ連と独ソ不可侵条約を締結して完全に行き詰り、平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇」と言う声明を発表して退陣しました。
ヒトラー政権は条約締結直後にソ連と東西からポーランドに侵攻しているので目的は明らかでしたが、当時の日本の外交当局には察知できなかったようです。
  1. 2022/08/22(月) 14:23:38|
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