「こんばんは、こんばんは、も1つおまけにこんばんは。雪うさぎです」照子のローカルFM番組はまだ続いている。ただし、東北地区太平洋沖大地震の時、被災者を勇気づけるために仙台に集まって日替わりで放送を担当した盛岡の石川賢治、宇都宮のとちおとめ、岐阜県可児市の昭和一郎、神戸の福原都、松山の正岡昇、熊本の水前寺亜紀、沖縄県宮古島のハイサイ兄さんのローカルFM番組も人気を維持しているようなので特別なことではない。それにしても最年長だった昭和一郎が80歳を過ぎても現役なのには頭が下がる。尤も最近は照子の番組でも聴取者の加齢と共に「昭和」で区切らなくても「20世紀」の思い出話や曲のリクエストが多くなり、昭和一郎ならぬ20世紀うさぎに改名することになりそうだ。実際、照子自身も新たに若い世帯の聴取者を開拓することの難しさは実感していた。
「今日の最初のメールは市内の旭川ラーメンは醤油味さんからです。そうですよね。道産子の間では旭川が醤油、札幌は味噌、函館が塩って言うのが常識ですが、内地では全て札幌ラーメンと呼んで味を分けています」「雪うさぎさん、屯田兵の旦那さんは帰ってきましたか。最近は旦那さんとのノロケ話が聞けなくて寂しいです」「ごめんなさい。旦那さんは屯田兵だから今は仕事の話ができないんです。でも愛情の赤い絆はシッカリつながっているから安心して下さい。貴方、愛してるよ」照子は仙台での出張DJを終えた帰路、隣りの名寄駐屯地の第3普通科連隊が岩手県宮古市に災害派遣されていることを知って慰問に訪れた。そこで被災者への炊き出しに当たっていた森田謙作曹候補士(当時)に一目惚れしたのだが「10歳年上だから諦める」と番組の中で告白すると聴取者から激励と助言のメールが殺到した。つまり照子にとって聴取者たちは縁結びの神様なのだ。そのため2人の暮らしぶりについても個人を特定されない範囲で紹介していてそれが「幸せな気分になる」と人気を集めている。
「今は家族の元に帰れない旦那さんと家で帰りを待っている雪うさぎさんに中島みゆきの『ヘッドライト・テイルライト』をリクエストします」番組では常連のこの聴取者が家族のように心配してくれていることが伝わってきた。実は森田予備3曹は自衛隊に治安出動が発令されて一般隊員の多くが道北地域の警察署の支援要員として派遣されると初動対処要員として駐屯地内で臨戦態勢を維持していたのだが、派遣された隊員が戻ってきた数週間前に自宅待機になり、家業の酪農を再開している。ここだけの話、久しぶりに長期間の部隊勤務を経験した影響なのか森田予備3曹は性欲が昂揚していて昨夜の夫婦の営みも結婚する前の旭川市内のマンションでの行為のように激しかった。この優しい聴取者に愛しい旦那さんが家に帰り、熱愛生活が再開していることを説明すれば安心させられるのだが、自衛官の行動については個人情報であっても公共電波に乗せて広めることはできない。
「それでは旭川ラーメンは醤油味さんのリクエストで中島みゆきのヘッドライト・テイルライトをお送りします。私もジックリ聞かせてもらいます。泣いちゃったらゴメンナサイ」この番組は森田予備3曹も欠かさずに聴いているので一緒に鑑賞できるのだがそれも説明できない。
「語り継ぐ人もなく 吹き荒ぶ風の中へ 紛れ散らばる星の名は 忘れられても ヘッドライト テイルライト 旅はまだ終わらない・・・」この曲は長距離トラックの運転手の聴取者から時々リクエストを受けることがあるが、こうして2人に贈ると言われて聴いてみると胸に深く染み亘ってくる歌詞だ。森田予備3曹は曹候補士として入隊すると抜群のバイアスロンのセンスを発揮して陸曹に昇任すれば冬季戦技教育隊に入校して冬季オリンピックの強化選手に参加させると期待されながら生徒・防衛大学校出身の北部方面総監の「曹候補士切り捨て」と言う不当人事で即応予備自衛官への転換を強いられた。その結果、照子と結婚して実家の牧場の仕事を始められたのだが、こうして戦争の可能性が高まってくると自衛官としての使命感が不完全燃焼していることは妻として切実に感じている。昨夜の営みでも結婚前に曹候補士としての将来を潰される無念の想いを自分の身体の中に注ぎ込んでいた頃を思い出させた。
「・・・旅はまだ終わらない」「旭川ラーメンは醤油味さん、素敵な歌を有り難うございました。本当に泣いてしまって鼻声になっちゃいました。この歌は国営放送の『挑戦者たち』のエンディング・テーマでしたよね。オープニング・テーマの『地上の星』は今でも流れることがありますが、こちらも捨て難い魅力があります。旦那さんが屯田兵として戦いに赴くことになってもテイルライトで後ろを見れば私が子供たちを守っている。そうして旦那さんはヘッドライトで照らし出された任務に前進する。そんな覚悟を与えてくれました」市役所の担当者からは「戦争の話題は市民を不安にさせるので番組の中で触れないように」と厳しく指導されているが、話の流れの中で本人も自覚がないまま自衛官の妻としての覚悟を口にしていた。勿論、戦時中のように「立派に死んでくれ」などと人間として有り得ない言葉を吐くつもりは毛頭ない。

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- 2022/08/30(火) 14:12:01|
- 夜の連続小説9
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