冷蔵庫に作り置きしてある食材を電子レンジで加熱して、同じくボールに入れてあるサラダを千切ったレタスに載せ、朝作ったコンソメ・スープを火にかければ夕食の支度は終わる。単身赴任の幹部の中には夕食も部隊で取って帰る者もいるが、モリヤ佳織将補は陸上自衛隊の女性自衛官の最高位にある者として入校している陸海空自衛隊の女性自衛官の幹部たちに家事を放棄しない範を示す必要があり、簡単でも自炊している。平成に入ってからの日本では女性の社会進出に伴って育児が「夫婦の共同作業」と言われるようになった一方で仕事優先を理由にして子供を持たない夫婦が激増している。その点、モリヤ将補はアメリカ陸軍の指揮幕僚大学院への留学に娘を帯同しているので防衛省・自衛隊としては家庭生活と両立できる職業としての宣伝材料にしたいようだ。ただし、モリヤ将補自身はAOC(幹部上級)課程には夫と交代で入校したが、2年間の幹部学校の指揮幕僚課程では夫が演習のない教育隊に転属して1人で子供たちを育てた。つまり両親が子育てに払う自己犠牲は夫が1人で担ったことになる。夫が自衛隊生活で演じ続けた損な役回りをプロデュースしたのは実はモリヤ将補なのだ。
「それにしても北朝鮮のミサイル工場はどうして爆発したのかしら」1人分の夕食をテーブルに並べて夫から教えられた習慣で手を合わせるとモリヤ将補はテレビを点けた。この時間は国営放送のニュースだ。するとアメリカ軍による原子炉封鎖作戦=ホールインワン16の成功に続いて北朝鮮の弾道ミサイル格納庫の爆発事故の解説が始まった。この問題は課業時間中に陸上自衛隊教育訓練本部長室で行われた将官会合でも議論になったが、点け放しにしていたテレビで見た立野官房長官の緊急記者会見でも具体的な説明がなく、原因の推理に終始した。本部長の音頭でアンケート式に披露した将官たちの推理では常識的に「作業事故」説が大半だったが、中には現体制に不満を持つ軍人による破壊や兵士の暴動、潜入したアメリカの工作員による攻撃などと言う奇をてらった意見も出て意外に受けた。モリヤ将補は意表を突いた見解を期待されていたが、周囲と同様に「作業事故」説を唱えて参加者を失望させてしまった。
「Bー2が空襲に向かっているんだから工作員を潜入させる危険を冒すはずがないわ。そうなると軍人による破壊や兵士の暴動になるけど可能性は低いわね」国営放送では「北朝鮮研究の第1人者」と紹介した国際派ジャーナリストに原因を解説させているが、日本の軍事のプロでも最高峰の将官たちよりは数段落ちる。それにしても夫とのパジャマ・ミーティングでかなり高度な雑学に慣らされているモリヤ将補は素人でも思いつく低レベルな見解を偉そうに語る解説者を真顔で見詰めながら感心したようにうなずき、話の区切りに「それはどう言うことですか」と補足説明を求めてみせる国営放送のアナウンサーの演技力には本当に感心してしまう。毎回のように第1人者と紹介する各分野の専門家の話を聞いていても決して訳知り顔にはならず、それでいて旺盛な好奇心を感じさせる視線は絶対に只者ではない。昔の夫ではないが坐禅を組んで「空っぽ」の境地を極めているのかも知れない。
「アメリカ軍も原因はまだ判ってないようね」結局、国営放送のニュースでも北朝鮮の弾道ミサイル格納庫の大爆発事故の原因の具体的な説明はなかった。唯一、判ったのは爆発の規模から見て格納庫内にあった弾道ミサイルには液体燃料が注入されていて、それが何らかの原因で発火したことだ。つまり北朝鮮は長距離弾道ミサイル・テポドン2号の発射準備を進めていたことになる。若狭湾での原子炉封鎖作戦を妨害する目的であれば信頼性が高く、即座に発射できる固体燃料の弾道ミサイルで十分であり、あえて液体燃料の長距離弾道ミサイルを使用すると言うことはBー2が発進したグアム島を狙った可能性も否定できない。
「そう言えばママさんの謎も解き明かさないと寝られないわ」モリヤ将補はテレビに続き、インターネットでも爆発事故の原因を検索してみたが、信頼が置ける軍事専門サイトでも無責任な推理は掲載していなかった。モリヤ将補はパソコンを操作していて唐突に夕方届いていたママさんからのメールを思い出した。ママさんは今日の原子炉封鎖作戦で関西上空を往復していたBー2の編隊を見て「空襲の幼児体験が甦った」と言ってきたが、同じ年齢の母親は高校の夏休みの宿題で家族の戦争体験の作文を書くことになって頼んでも「記憶がない」と答えてくれなかった。映画「火垂るの墓」や「少年H」で描かれて有名になった神戸の空襲は昭和20年の3月17日と6月5日の2回だが、3月13日から8月14日まで8回(7月10日は堺市)繰り返された大阪の空襲の巻き添えも受けている。
「そんなの簡単よ。典子はお父さんが軍人で伊丹にいたから空襲は直接受けていないけど私は大阪で育ったからも経験が豊富なのよ」ママさんのスマートホンにメールすると返事は即座に返ってきた。確かに祖父は陸軍士官学校出身ではない予備士官だったので戦時中は家族を連れて伊丹で勤務していた。北朝鮮の大爆発問題もこのくらい簡単に解明できれば本当に助かる。
- 2022/09/01(木) 15:56:38|
- 夜の連続小説9
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