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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月2日・戦犯にならなかった支那派遣軍司令官・岡村寧次大将の命日

昭和41(1966)年の日本が正式に敗戦した9月2日は中国戦線で日本陸軍史上最大と言われる大陸打通作戦などを指揮しながら敗戦後の南京軍事法廷で無罪判決を受け、最高顧問待遇で蒋介石総統に協力した岡村寧次(やすじ)大将の命日です。
岡村大将は明治17(1884)年に元幕臣の息子として東京で生まれ、旧制・早稲田中学校を卒業後、東京陸軍地方幼年学校に入営すると陸軍中央幼年学校を経て明治37(194)年に第16期生として陸軍士官学校を卒業しました。同期には岡村大将を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山少将、小畑敏四郎中将をはじめ東京裁判のA級戦犯として絞首刑になった土肥原賢次大将、板垣征四郎大将や最後の台湾総統の安藤利吉大将などがいます。
卒業後は首都防衛の任務を負って東京の六本木(敗戦後の防衛庁所在地)に駐屯していた歩兵第1連隊に配属され、明治40(1907)年からは陸軍士官学校生徒隊付に転任して中国からの留学生を担当するのと同時に中国の研究に取り組みました。
明治43(1910)年に中尉で25期生として陸軍大学校に入校し、大正2(1913)年に大尉で修了すると原隊の歩兵第1連隊に戻って中隊長になり、大正3(1914)年に参謀本部に転属して北京駐在を経験してからは大陸通として処遇されるようになりました。中でも昭和7(1932)年から上海派遣軍や関東軍の参謀、満洲国陸軍武官などを渡り歩き、国民党軍首脳に強固な人脈を構築しています。
昭和10(1935)年に参謀本部第2部長として中将に昇任すると仙台にあった第2師団長に就任しましたが昭和12(1937)年4月に満洲に派遣され、7月に盧溝橋事件が勃発して日中の本格化していく武力紛争の当事者になりました。さらに昭和13(1938)年に第11軍が新設されると初代司令官になって武漢攻略作戦で大活躍し、昭和16(1941)年に大将に昇任して北支那方面軍司令官に就任すると長引く大陸暮らしで弛緩仕切っていた軍の規律の引き締めに取り組み、大陸戦線での日本陸軍の内部崩壊を喰い止めました。こうして組織を建て直した北支那軍の総兵力41万人を以って昭和19(1944)年4月から12月まで実施したのがアメリカ軍のBー29による日本本土空襲を阻止するため河南省洛陽から広西省桂林までを縦に貫き、中国内陸の交通路を確保する大陸打通作戦でした。この作戦は目的を達成したので成功だったのですが、それ以前にマリアナ群島が陥落して太平洋側からのBー29による空襲が本格化して、必要性が薄れた中国内陸のアメリカ軍基地は奥地に後退したため戦略上の意味はありませんでした。
その後は第6方面軍司令官、支那派遣軍司令官に肩書は変わっても大陸に留まり、戦線の停滞により持久戦に転換し、現地の住民たちとも比較的友好な関係を保っていましたが、昭和20(1945)年8月に入って東京から「ポツダム宣言受諾」の方針が届くようになると敗戦が実感できない岡村大将は強い言葉で真意を問い質し、これが東京の徹底抗戦派の過激派将校に利用されたため、「昭和の陛下の聖断を厳守すること」を全軍に徹底して極めて規律正しく降伏したのです。その結果、戦犯を除く支那派遣軍の将兵は山田乙三大将の関東軍のシベリア抑留に比べれば多くが無事に帰還を果たしました。
  1. 2022/09/02(金) 14:09:44|
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