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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月3日・琉球王統の軍人・親泊朝省大佐が一家心中した。

日本が敗戦した翌日の昭和20(1945)年の9月3日に琉球第2尚王統出身の親泊朝省(ちょうせい)大佐が一家心中しました。親泊大佐は琉球第2尚王統3代の尚真王の長男でありながら策謀によって廃嫡されて浦添城に隠棲した浦添朝満王の直系です。
現在の日本人は平成の天皇が在位中に旧・皇軍を冒瀆し、軍人を侮辱し続けていたため武士を血で汚れた存在として近づけなかった平安時代の感覚を継承しているのかと誤解してしまいますが、明治政府はヨーロッパの王族が軍務を果たしていることを模倣して明治6(1873)年の太政官達と明治43(1910)年の皇族身分令で皇族の身体堅固な男子に陸海軍軍人になることを義務づけていました。なお、朝鮮の李王家も皇族に加えられたため王太子以下の男子が軍人になっていて、陸軍中佐だった国王の甥は広島で被爆死=戦死しています。
一方、琉球王家は日本に吸収される前に藩並みに格下げされているため華族扱いになり、この太政官達や皇族身分令は適用されませんが、親泊大佐は旧制・沖縄県立第1中学校(現在の首里高校)から熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て大正10(1921)年に37期生として陸軍士官学校に入校して首席で修了しています。同期には隼戦闘隊長として勇名を馳せた加藤建夫中佐、山県有朋元帥の娘の3男で跡取り養子になった山県有光大佐(山口県の風習?)、毛利家の当主の毛利元道少佐(家督と公爵を相続するため退役した)、敗戦後、陸上幕僚長になる杉本一次大佐、陸上自衛隊幹部学校長になる井本熊男大佐(井本生徒を首席修了とする記録もある)、陸軍内の親ソ派でシベリア抑留中に志位和夫共産党委員長の叔父と共にスパイ=工作員教育を受けた種村佐孝大佐、2・26事件の首謀者として銃殺された村中孝次大尉などの歴史に名を残す人物が揃っています。
兵科は騎兵で昭和6(1931)年に満州事変が勃発すると朝鮮半島北部の羅南に駐屯していた騎兵第27連隊の小隊長として出征し、匪賊=馬賊討伐で連隊長が戦死する激戦を経験しました。昭和9(1934)年に大尉に昇任して豊橋の騎兵第25連隊で中隊長を務めてからは昭和11(1936)年に陸軍大学校の馬術教官、昭和12(1937)年に参謀本部副官、昭和15(1940)年に騎兵学校教官と戦時とは思えない平穏な軍歴を重ね、昭和15(1940)年に大陸の占領地の警備を担当する第38師団の参謀に転出したものの対米英戦が始まっていた昭和17(1942)年には中佐として陸軍士官学校教官、昭和19(1944)年からは大本営報道部員として勤務して大佐に昇任しました。この報道部員時代に名を残したのが、フィリピンにマックアーサー元帥が「アイ・シャル・リターン」したため大本営が戦意高揚の軍国歌謡曲「比島決戦の歌」を製作した時、歌詞に敵将のマックアーサー元帥とニミッツ元帥の名前を入れるように作詞者の西条八十さんに命じても拒否したため親泊中佐が即興で「いざ来いニミッツ、マックアーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」の歌詞を追加して完成させたと言うものです。
親泊大佐は戦艦ミズーリ甲板でマックアーサー、ニミッツ両元帥が立ち会った降伏文書への調印が終わった翌日、妻と長女、長男を拳銃で射殺した後、自決しました。
  1. 2022/09/03(土) 15:05:53|
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