fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月4日・「スパイM=飯塚盈延が死んだ」とされている日

昭和40(1965)年の9月4日は戦前の治安維持法に基づき共産主義革命活動を専門に取り締まっていた警視庁特別高等警察課のスパイとして極めて巧妙に立ち回り、日本共産党を壊滅状態に追い込むことに多大な貢献をした「スパイM=偽名の松村昇に由来する」こと飯塚盈延(みつのぶ)さんの命日と言うことになっています。
日本共産党は創設時から武力革命を党是として敗戦後も朝鮮戦争に呼応してソ連から供与された武器で占領軍を攻撃して日本の共産主義化、少なくとも南北分断を画策していましたが、70年代学園紛争を経て共産革命の気運が終息すると選挙による政権獲得に戦略を転換し、その宣伝材料として戦前の思想弾圧を内部調査して、軍国主義と戦争に反対して弾圧を受けた犠牲的平和の守護者を演じるようになりました。飯島さんはその信憑性は全くない宣伝の中で憎むべき極悪人役を押しつけられた被害者なのかも知れません。
飯塚さんは明治35(1902)年に現在の愛媛県西条市で生まれました。尋常小学校では「天才」と仇名されるほど成績優秀でしたが当時の一般家庭の経済力では進学できず、働き始めた大正7(1918)年に起こった米騒動で労働運動に関心を持ち、日本共産党としては初の労働者出身の党員になりました(それまでは富豪の息子の大学生ばかりだった)。すると党からソ連共産党がモスクワに開設したアジアの植民地での革命の指導者を養成する東方勤労者共産大学に派遣されましたが、日本共産党はソ連が作った革命の道具に過ぎないことを知り、帰国して警察に検挙されたのを切っ掛けに転向するとスパイとして共産党に復帰したのです。その後は革命資金を奪取するため共産党員に日本初の銀行ギャングを働かせるなどの過激な闘争によって警察に摘発させる口実を与えながら潜伏情報を流して組織の弱小化を進めました。それでも共産党員たちはソビエト帰りの飯塚さんを尊敬・信頼して疑念を抱くことはなかったようです。そうして一連の事件の捜査によって「昭和7(1932)年10月30日に熱海の旅館で幹部による地方代表者会議が開催される」との情報を入手した特高警察によって出席者全員が逮捕されて(共産党側が発砲して警察官が重傷を負った)、日本共産党は事実上壊滅しました。
飯塚さんは事件後「用済みになったから特別高等警察に抹殺される」と恐れて兄と一緒に満州で建設業を営み、敗戦後は革命組織として人殺しを厭わない日本共産党に報復されることを怖れて逃避生活を送り(日本共産党は真逆の見解)、その死が公式に発表されたのは昭和51(1976)年10月28日の衆議院本会議で公明党の矢野絢也議員の発言中に「反共の犬、犬が吠えている」と執拗に野次を飛ばしたことで懲罰委員会に付託された共産党の紺野与次郎議員が「特高首脳部はスパイ飯塚盈延に大金を与えて姿をくらませ、その後、飯塚は終生社会からの逃亡者としての生活を行い、待合に隠れ、北海道と満州を往復し、終戦後偽名で帰国して以来本籍を隠し、偽名を使い続け、元特高らに消されることを恐れ、一室に閉じ籠り、昭和40年酒におぼれて逃亡者として生涯を終えている。しかし、生地の本籍上の飯塚盈延はいまでも生きていることになっています」とまくし立てた反論でした(議事録では戦前の特別高等警察の思想弾圧を述べた極めて長い弁論の僅かな一部)。
  1. 2022/09/04(日) 15:06:34|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ239 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ237>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/7885-ca7ac287
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)