1982年の9月5日は航空機事故で両足を失いながら義足で戦闘機を操縦して第2次世界大戦に参戦し、1941年までの緒戦で公認撃墜数22機、共同撃墜4機、不確実6機、撃破11機の戦果を上げたイギリス王室空軍のエース・パイロット=サー・ダグラス・ロバート・スチュアート・バーダー(アメリカ読みではベイダー)大佐の命日です。
バーダー大佐は飛行機が初めて実戦に投入された第1次世界大戦が始まる4年前の1910年にロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターで生まれました。幼い時期をインドで過ごし、11歳の頃に第1次世界大戦での多大な戦功によって独立軍種になっていた王室空軍の士官だった叔父の影響で空軍を志願するようになり、1928年に空軍大学に入学して1930年にパイロットとしてケンリー基地の第23飛行隊に配属されました。空軍大学校ではスポーツ万能の荒くれ者として有名だったようです。
1930年代は鉄骨に紙張りの複葉機から金属製で単葉翼の機体に移行する発展期で、航空機の開発と購入の予算獲得と操縦技術の誇示のため曲技飛行が盛んに行われ、バーダー少尉も花形でしたが、1931年12月14日にウッドリー飛行場で墜落して両足首から先を失ってしまいました。バーダー少尉は義足を装着しての歩行訓練に励み、航空機の操縦にも挑みましたが、航空機はスティック・レバー=操縦桿とラダー(方向舵)・ペダルで操縦するため足の感覚は必要不可欠であり空軍医療委員会から「パイロット不適格」の判定を下され1933年に退役しました。退役後はアジアの石油会社(現在はシェル傘下)の航空部門に参加する一方でゴルフに励んで身体能力を維持・向上させていたようです。
1939年になるとナチス・ドイツとの開戦を予見するようになり、王室空軍の中央飛行学校に合格すると復習課程を終えて1940年2月にダックスフォードの第19飛行隊に配属され、初めてスピットファイアに搭乗しました。当初は海上での船団護衛でしたが、間もなく第222飛行隊に基地内移動すると同年6月にダンケルク上空でドイツ軍機と交戦してコルディスホール基地の第24飛行隊長に抜擢されました。
この飛行隊はフランス戦線で多大な犠牲を出して士気が低く、バーダー大尉はパイロットを鍛え直し、パイロットたちも両足がない隊長に勝てない自分の不甲斐無さを噛み締めて訓練に励み、同年8月30日にはドイツ軍機12機を撃墜し(バーダー大尉は2機)、バトル・オブ・ブリテンでは1940年末までに67機を撃墜して戦死者は5名でした。
1941年3月からはフランス占領地のタンメール基地の戦闘航空団を指揮するようになりましたが同年8月8日に昼間爆撃隊の護衛中に味方の機銃で誤射されて脱出し(公式記録ではメッサーシュミット109との空中衝突)、ドイツ軍の捕虜になりました。
ドイツでは何度も脱走を試みたため古城を収容所にされましたが、イギリス軍は繰り返し交換用の義足を投下し、ナチス・ドイツ軍も敬意を払って帰路の安全を保障したと言われています。終戦後は1946年2月に王室空軍を退役して石油会社に復帰する傍ら趣味として飛行機を操縦して身体障害者の憧れであり続け、財政支援と合わせた身体障害者福祉への功績によって1976年に勲章を授与されました。
- 2022/09/05(月) 15:04:33|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0