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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月7日・アフリカ的独裁者の代表・モブツ大統領の命日

1997年の9月7日はアフリカ的独裁者の代表と評されているザイール=コンゴのモブツ・セセ・セコ・クク・ンベンンドゥ・ザ・バンカ大統領の命日です。
野僧世代の多くは政治家としてのモブツ大統領は知らなくても世界各国への衛星中継で10億人が視聴したと言われる1974年10月30日のモハメド・アリとジョージ・フォアマンの世界ヘビー級タイトル・マッチ「キンシャサの奇跡」を実現した人物として名前を記憶しています(野僧は高校時代から政治家として研究していた)。
モブツ大統領は1930年に史上最悪の宗主国・ベルギーの植民地だったコンゴ北部のリサラのカソリック宣教師の公館の料理番と掃除婦の夫婦の息子として生れました。19歳で学校を退学させられると7年間軍務に就くことになり、除隊後は首都で会計主任やタイピスト、公安軍の機関誌の編集員として働き、26歳で大衆向けの日刊紙の編集長に採用されると1958年にジャーナリストとして知り合ったパトリス・エメリィ・ルムンバさんが創設したコンゴ国民運動に加入してベルギーとの独立交渉に参加することになりました。そうして1960年6月に独立すると初代首相になったルムンバさんの補佐官に抜擢され、さらに創設されたコンゴ軍の参謀総長に就任しました。
しかし、同年7月にベルギーの在コンゴ企業連合が駐留ベルギー軍を巻き込んで最も開発が進み資産が潤沢なカタンガ地区を独立させた結果、深刻な政治的混乱と経済危機が発生したため9月にクーデターを起こして政治的実権を握ると親米派のジョセフ・カサブブ大統領と結託して国家主義者のルムンバ首相を逮捕したことでアメリカが好感を持ち、1961年に自主的に民政に移行したことで支持を固めたのです。
1965年11月に再度のクーデターで大統領に就任すると憲法の無効化によって革命人民運動の一党独裁体制を確立しました。それからはサハラ以南アフリカの盟主としての地位を獲得するため国内だけでなく周辺諸国の反対派の粛清に邁進しましたが、第2次世界大戦後に独立させたアフリカ諸国が次々にソ連の支配下に置かれていくことに危機感を持っていたアメリカやヨーロッパは反ソ連を公言するモブツ政権を利用するつもりで巨額の財政支援を与え、国際的地位を保証したのです。ただし、モブツ政権がソ連と対立していた共産党中国に接近して軍事支援を受けたことが現在の一路一帯戦略につながるアフリカ支配=新たな植民地化の原因になりました。
その一方で独裁体制を固めたモブツ大統領はアフリカ民族主義を強め、1971年には国名をコンゴからザイールに、首都の名称をフランス語のレナポルドヴィルからキンシャサに、自分の氏名もジョセフ・デジレ・モブツからモブツ・セセ・ココに変更しています。そんなアフリカ的独裁政権も1996年にモブツ大統領が前立腺癌を発症してスイスの病院に長期入院した留守中に強権で抑圧していた国内外の不満や対立が次々に発火し、反政府勢力の暴動が国土の大半を制圧する大蜂起に発展したためモブツ大統領は内戦の再発を回避して31年間維持した政権を明け渡し、1997年5月18日にモロッコへ亡命して、その地で死亡しました。幕の引き方は立派でした。
  1. 2022/09/07(水) 15:37:09|
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