その頃、A日新聞の社長以下の主要幹部たちは中国大使館に呼ばれていた。これから中国共産党の最高権力者からの言葉を大使から伝達されるのだ。社長以下は大使室に入ると壁に掲げられている最高権力者の巨大な肖像写真の前に整列して前屈運動のように腰を90度以上に折って最敬礼した。加齢で柔軟体操は苦しい社長としては中国共産党への絶対的忠誠心を示すために日本式の土下座をしたいところだが、それで中国式を要求されれば三跪九叩頭(3度跪いて頭を3回ずつ床に打ちつける)になるから前屈の方がまだ楽だ。
「社長、我が共産党は君たちA日新聞の中日戦争以来一貫して変わらない忠誠を高く評価してきたよ」中国式の応接セットに座った社長以下に大使は流暢な日本語で挨拶した。社長が大使館に呼ばれる理由は重大な政治的策略を伝達し、報道機関としての協力を指示する時か、重要な国家秘密を流し、大きな成果を上げたことへの賞賛と謝辞、そして期待に反した時の叱責だ。今回は社長だけでなく主要幹部も同席させたと言うことは重大な事案であることは想像に難くない。それにしても中国共産党のA日新聞に対する高い評価が過去形なのは大使の語学力から見て言い間違いではないはずだ。
そこに女性秘書が最高級の中国茶を運んできた。社長はこの東洋的美人の秘書に会う度に見惚れてしまうが、御用聞きに大使館に通っている社員から「来客の目にとまる女性は全てハニートラップの武器だ」と聞いているので成果を上げた褒美に抱けるとしてもそこは控えている。中国の配下である社長には今更握られる弱味はなく、諦めている回春が期待できるのだが、ハニートラップにかかった政治屋たちの末路を知っているだけに君子危うきには近づかずだ。
「A日新聞は偉大なるロシア革命によって労働者の理想郷が現実に建国されたのを見て我が国でも天皇が支配する君主制度を打ち破り、労働者をブルジョアジーの搾取から解放して、生産を平等に分配する理想の国家を樹立させたいと第3インターナショナルに参加したんです」中国茶で口を湿らせた社長は唐突にA日新聞の社史を語り始めた。これが大使にA日新聞の忠誠心を再認識させるための弁明なのは言うまでもない。
「A日新聞は明治政府の宣伝媒体だった創立期の論調を利用しながら満州の陸軍の南進を提唱してソ連への脅威を解消しながら蒋介石の国民党軍との戦闘に邁進させました。それは毛主席が望まれた日本軍と国民党軍の消耗戦です。さらにアメリカへの敵意を扇動して日米戦争に発展させて日本を敗北させました。これで天皇への忠誠心が消滅すれば焦土で革命が起こるはずでしたが原爆に邪魔されました」A日新聞が反核運動に熱心な理由を社長が自白した。
「ところがソビエト連邦は所詮ヨーロッパの国家であって人民は権利意識を国家への忠誠心よりも優先するようになった。それをなだめるためにゴルバチョフが欧米流の自由を部分開放するとソビエト連邦人民の権利意識は大炎上して理想郷で生活する至福を忘れてマルクス主義を放棄しようとした」本来は前置きに当たる社長の弁明が妙に熱を帯びてきたが大使は制止しない。大使は中国共産党の指令を正確に伝達することが職務であり、個人的に好感を抱いてもその内容に手心を加えることなど無理な相談なのだ。重い宣告の前に自己弁護を語らせておくのは中国共産党の常套手段でもある。
「その内部崩壊が中華人民共和国にも波及する危険性を正しく認識した鄧小平同志が天安門前広場に集まる反乱分子を実力で排除した時、我がA日新聞は日本人がリンチ殺人事件を利用して自民党政権に嫌悪感を植えつけられた70年大学園闘争と同様の学生たちによる騒乱だと報道して批判世論を抑えることに成功しました」「確かに日本はヨーロッパやアメリカの経済制裁には同調せずに天皇を我が国に旅行させて国際的立場の回復に貢献した。おまけに天皇は日本の侵略を公式に謝罪したから貢献は絶大だった。そう言えば香港の暴動でも同じ手法を使ったんだったな」再び肯定的評価が過去形になった。
「その他にも中日国交回復時の友好ブームや経済支援の演出、何よりもバブル景気が崩壊した後には人件費が安い中国への工場移転を推奨して現在の経済発展に大きく貢献しました」ここで社長の熱弁は現在に追い付いてしまい切れ目になった。
「諸君らが主導してきたA日新聞が日本における第3インターナショナルの実践者であり、我が共産党の最大の協力者であることは北京も認めている。しかし・・・」賛辞を口にしながら大使の目はヒマラヤからチベットへ吹き下ろす南風のように冷たくなった。
「諸君らも長年にわたって願望し、協力してきた日本を中華人民共和国の一部とするための軍事行動が一向に進捗しないのはどう言う訳だ。日軍(自衛隊)などは国民の支持を得られず軍にもなれない武器を持った模造品ではなかったのか」この叱責に社長は全身から冷や汗を吹き出して怖れ慄いたが高級幹部たちは腹の中で「八つ当たりするな」と嘲笑していた。
- 2022/09/12(月) 15:22:50|
- 夜の連続小説9
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