2011年の9月16日は青山学院大学卒と言う異色の学歴と「ヨネチュウ」の通称で記憶に残っている航空幕僚長・米川忠吉(ただよし)空将の命日です。ちなみに野僧は奈良・幹部候補生学校の卒業パーティーで入校中の課題論文を読んでいた校長が「コイツの戦術理論は並みではないです。是非、戦車連隊を率いさせてノモンハンでソ連軍と再戦さてみたいものです」と紹介してくれたため大いに話が弾んでしまいました。
米川空将は昭和7(1932)年に神奈川県で生まれ、昭和30(1955)年に青山学院大学経済学部を卒業すると前年に創設された航空自衛隊に入隊しました。入隊後はパイロット要員に指定されましたが、航空自衛隊そのものが生まれたばかりなのでアメリカ空軍から提供された練習機を使い、アメリカ空軍のパイロットを教官としての教育訓練でウィングマーク=操縦士資格を取得するとF―86F旭光に搭乗する戦闘機パイロットになり、昭和33(1958)年2月17日から始まった対領空侵犯措置に参戦して国防の第一線に立ってきました。
陸海空自衛隊では創設期の官僚出身者を除けば公職追放が解除された陸上は陸軍士官学校(一部、内務=警察官僚出身者が割り込んだ)、海上は海軍兵学校、航空は陸軍航空士官学校と海軍兵学校出身飛行士官の混成が幕僚長に就いていましたが、年齢的に陸海軍出身者が退役し、防衛大学校1期生が幕僚長になるまでの1代を一般大学出身者でつながなければならず、陸上は東北大学卒の寺島泰三陸将、海上は東京水産大学卒で対潜哨戒機パイロットの東山収一郎海将、航空は青山学院大学卒の米川空将でした。
航空自衛隊が何時の段階から米川空将を将来の幕僚長に決めていたのかは不明ですが、航空幕僚長レースは事故による殉職者が多く、生き残っていることが必須条件でした。経歴を見ると昭和51(1976)年に1佐に昇任して航空幕僚監部防衛部運用課第2班長になった頃にレールが敷かれたようで昭和53(1978)年に第1輸送航空隊司令を1年で出戻って空幕防衛部運用課長、昭和55(1980)年には第2航空団副司令になって1年で空将補に昇任して団司令に格上げと言う異例の人事を受け、空幕監察官を経て昭和59(1984)年に空将になると北部航空方面隊司令官、昭和61(1986)年6月から飛行教育集団司令官を半年、そして航空総隊司令官を1年間で必要な経歴を刻み終わり、昭和62(1987)年12月11日に航空幕僚長になったのです。
米川空将は陸海軍や防衛大学校出身ではありませんが防衛行政には長けていたようで、昭和62(1987)年12月9日に沖縄で領土侵犯したソ連軍偵察機に第83航空隊のスクランブル機が警告射撃を実施しましたが、米川空将が航空総隊の対領空侵犯措置実施細則を改定していたためアメリカ軍も納得する国際標準の対応ができたのです。その後、航空幕僚長として航空自衛隊の同規則を改定しましたが上級規則を先に改定しなければ旧規則の制約を超える新たな処置は盛り込めないはずなのに手元にある両規則・細則(今は防衛秘密指定を解除されている)を読み比べても見事に適合していて手法は謎です。何よりも1989年には航空自衛隊の組織の大改編を実行しています。
- 2022/09/16(金) 15:42:52|
- 自衛隊史
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