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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月19日・悲劇の琉球国王・尚寧王が崩御した。

明の年号で万暦48=日本では元和6(1620)年の明日9月19日に第2尚氏王統初代尚円王が即位して以来、沖縄諸島と徳之島以南の奄美諸島を130年間・7代にわたって支配してきた琉球王国を島津氏の武力侵攻に敗北し、王統こそ存続したもののも独立国としての統治権は喪失した悲劇の国王・尚寧王が崩御しました。
尚寧王は第2尚氏王統でも嫡流ではなく琉球王国の支配地域を最大にした第3代尚真王の側室が生んだ長男(子孫には対米英戦の降伏文書調印の翌日に一家心中した親泊朝省大佐がいる)の孫で6代尚永王の娘婿でした。
尚寧王は明の年号で嘉靖43年=日本では永禄7(1564)年に後に小禄御殿(「御殿」は日本の皇室の「宮」に相当する)と称することになる分家の朝賢王子と6代尚永王の妹の間の長男として浦添城で生まれました。ところが尚永王に男子がいなかったため娘婿として迎えられて王太子となり、明の年号の万暦17年=日本では天正17(1589)年に尚永王が崩御すると25歳で7代尚寧王として即位したのです。
即位してからは明皇帝への朝貢を欠かすことなく変わらぬ庇護を受け、平穏無事に琉球王国を統治していていましたが、この頃の日本本土では天正10(1582)年に織田信長さまが討たれた後に天下の覇権を横領していた豊臣秀吉さんが慶長3(1598)年に死亡すると東照神君・徳川家康公が16年間横取りされていた天下を奪い返すべく動き始め、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で勝利すると慶長8(1603)年に江戸に幕府を開きました。ここで問題なのは九州最南端・薩摩大隅を領有する島津氏で、天下分け目の大戦(おおいくさ)に参陣すべく徳川氏の京都における拠点だった伏見城に到着したものの家康公は会津・上杉討伐に向かった後で留守居役の鳥居元忠さんは「何人も入れてはならぬ」と言いつけられていたため入城を拒否し、島津勢はやむなく大坂城に引き返して毛利輝元さんと石田三成さん側に加わることになりました。このため関ヶ原では何もしない間に決着がついてしまい前進突破で退却を開始し、多大な犠牲を払いながらも島津家久さんを薩摩に生還させて比類なき強さを天下に示したのです。
そんな島津氏が幕府の許可を得て明の年号の万暦37年=日本での慶長14(1609)年に侵攻してきたのですが、この頃の琉球王国では豊臣氏が実施した刀狩りと同様に領民から狩猟用を除く武具だけでなく鎌や包丁以外の刃物も取り上げて農具に改鋳していたため全く抵抗できないままの無血開城状態だったようです。
こうして尚寧王は島津氏に同行する形で江戸に出府して徳川秀忠公に謁見し、以降、明朝・清朝への朝貢は継続しながらも沖縄には島津氏の奉行と代官が常駐するようになり、慶長18(1913)年には与論島以北の奄美諸島が島津氏に割譲されました。
第2尚氏王統の墓所は首里の玉陵ですが、尚寧王は浦添ようどれに葬られています。近年の歴史を現代の軽薄な感覚で再評価する連中は「本人の『浦添城に帰りたい』と言う遺志であって島津への敗北を恥じた訳ではない」と伝承を否定する詭弁を弄していますが、先祖から子孫に君主の座を継承する国王の立場を考えれば伝承の方が正しいでしょう。
尚寧王みなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2022/09/18(日) 16:04:03|
  2. 沖縄史
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