「世界は最悪の事態に陥っていくな」傍聴席で常任理事国の口論を聞いていた松山1佐は小休止になったところで隣席のジュウゾーに聞こえるように呟いた。ジュウゾーは小中学生の頃に商社マンの父親が家族連れでシンガポールに赴任したため現地で育った。そこで世界への輸出拠点として集まっている東南アジア各国の企業人の子供たちと一緒に学校教育を受けて幅広い語学力を修得した。帰国後はその語学力を活かして企業の東南アジア支社で活躍しようと東洋学界系の大学でタイ語を専攻したが、運悪くバブル景気の崩壊による深刻な就職難と重なり、PKOや災害派遣で海外に派遣されている陸上自衛隊に入隊した。
「いよいよ日本に中国が侵攻するんですか」「それだけですめば良いが」ジュウゾーが今日の口論を聞いていて最も危惧した事態を答えると松山1佐は無表情に首を振った。中国は今回の武力衝突の第3段階として従属国と称する琉球王国にとっての最大の支配地域の北限だった徳之島占領を目的として輸送艦を中心とする艦隊を派遣した。ところが護衛の艦艇が接近した海上保安庁の巡視船を攻撃しようとしたことで海上自衛隊に緊急避難による武力行使の口実を与え、呆気なく壊滅的損害を被った。これが人民解放軍としての中国海軍にとっては初の海戦であり、艦隊としての戦闘行動の練度不足が露呈して日清戦争における黄海海戦の再現になってしまった。その後も太平洋で潜水艦が日本の通商航路破壊を狙ったが護衛の日米艦隊に発見されて次々に撃沈されている。その屈辱的経験で海軍力に対する自信を完全に喪失したことが中国の元寇と同じく韓国と連携した日本本土への侵攻を断念させ、銃器を使った暴動・内乱による内部崩壊に戦略を転換させた。しかし、日本は治安出動した自衛隊が全国一斉に在日中国人の自宅を捜査して、迅速に摘発が進んだため暴動には至らず、個人単位の発砲事件の続発に留まっている。国連大使同士の口論を聞いて武力侵攻を危惧したとすればジュウゾーの陸上自衛隊士官としての練度も不足していることになる。
「そうか、君たちは東西冷戦を知らないんだな」「ソ連が崩壊する直前に生まれましたから人生経験として時間は重なっていても体験学習はしていません」妙に屁理屈ぽい答えに松山1佐は苦笑した。松山1佐の理屈ぽさは3尉として最初に勤務した守山の第35普通科連隊でモリヤ中隊長が面白がって相手にしたので修正されることなく強化されてしまった。それでも「東京六大学の雄」出身と言う学歴で相手が納得するためそれほど損はしていない。
「東西冷戦は超軍事大国だった自由主義の筆頭・アメリカとマルクス主義の盟主・ソ連が対立していて後発の中国はそこにあるだけの存在だった。だからアメリカは国交を樹立すると味方に引き入れようと妥協を重ねて完全に増長させてしまった。台湾を中国の属領とする言質を取られたのは今も禍根を残す大失策だな」「それは大学時代に教授から聞いたことがあります」実際にジュウゾーが大学の東洋史の講義で聞いたのは「偉大なる毛沢東の卓越した指揮の下、中国が自力更生して基盤を作り、それが鄧小平の適切な指導によって飛躍的な発展を遂げて、遠からず日本を凌駕する」と言う今では現実になってしまった国際情勢の未来図を中国の立場だけで語ったものだった。当然、国交回復後の日本の巨額の経済支援やバブル崩壊後の工場移転による技術流出が果たした貢献は無視していた。
「加倍首相はロシアを孤立させれば中国が取り込むことを予測して大統領と個人的に信頼関係を構築しようとしたんだが、日本のマスコミは勝手に北方領土の返還を期待させる報道を始めて会談の度に成果がないと批判した」「それは日本で見ていました。隊員の中でも『あんなKGB上がりの危険な男を信用できるのか』って意見が多かったです」「それを小隊長としてどう説明したんだね」ここで松山1佐はモリヤ中隊長に投げかけられたような質問をした。ジュウゾーは生唾を一つ呑むとしばらく思案してから答えた。
「加倍首相の訪ロは北方領土の返還交渉が目的ではないと説明しましたが、外交上の意図までは理解できていませんでした。勉強不足です」「それは君だけじゃあない。日本人の大半が加倍首相の高度な外交的識見に追いつくことができずにマスコミの批判報道を鵜呑みにしていたんだ。実際、加倍首相が退陣した途端にロシアはさらに大きな経済支援を提示した中国に乗り換えた。中国のウクライナ侵攻への全面支援はアフガニスタンの支配権と引き換えだったんだが、その直前に政権を奪還したタリバーンは新疆ウィグルでのイスラム教徒弾圧を許さないから経済支援では手懐けられない」今度は松山1佐が深く息を呑んで間をおいた。
「どちらにしても東西冷戦の自由主義とマルクス主義の政治体制の対立とは別次元の第2次世界大戦後に世界共通の道理になってきた自由・民主主義を否定するスターリン主義と毛沢東主義が一体化した新たな道理が完成する途上にあるんだ」亡き加倍首相と同様の松山1佐の高度な外国的識見をジュウゾーが思案していると議長の国連大使が議事の再開を宣言した。
- 2022/09/19(月) 15:26:30|
- 夜の連続小説9
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