「梢、お父さんが癌なのさァ」オランダでは私が出勤準備をしている早朝、沖縄の安里家の母から電話が入った。ソファーで新聞を読んでいる私にコーヒーを運んできた梢が出ると母の悲痛な声が接続しているスピーカーから響いた。日本との時差8時間を考えればあちらは午後3時頃になる。おそらく病院で検査を受けた後の診断を聞いて電話してきたようだ。梢は1人娘なので取り乱すかと思ったが意外に冷静な表情でこちらを見た。
「どこの癌なの」「それが膵臓なのよ。高齢者の健康診断で血糖値が高いって言われたけどウチの食事で糖尿病になるはずがないって言ったら精密検査を勧められて今日受けたのさァ」「膵臓癌かァ・・・昭和の陛下と同じだな」私も1年余りの拘置所生活で血糖値が上がったが、食事の栄養価と運動量は厳格に管理されていたので膵臓癌を疑われた。前川原の同期の担当医は疑わしき病名を説明した後、精密検査を勧めるのに「昭和天皇と同じ病気だ」と補足した。私が崩御された時に殉死を決意するほど昭和の陛下を崇敬していたことは医官課程にも知れ渡っていたらしい。確かに入校したのは平成元年だから1年は経っていなかった。
「膵臓癌だと南城市の淳之介のお祖父さんと同じよ。転移の仕方にもよるけどあまり苦しまない分、長くなるみたい」私は昭和の陛下だったが梢は美恵子の父親の玉城松栄さんを思い出していた。梢は松栄さんの病状が重篤になった時、孫の嫁でも視覚障害者のあかりに代わって介護に行くことを決めていたので何時ものように勉強していたようだ。
「私は帰るつもりだけど・・・帰るわ。お母さんも気をシッカリ持って一緒に介護するのよ。待っててね」梢が話しながら私の顔を見たので大きくうなずいた。この確認に両手で丸を作るのは不謹慎だろう。気持ちはつながっていてもやはり目と耳での確認は必要なのだ。
母は梢の声を聞いて時差を忘れてしまったようで質疑応答を始めてしまった。梢は視線を壁の時計に向けて私に出勤準備の再開を促し、台所に用意してある朝食を教えた。今朝も玄米の飯と具沢山の味噌汁、自家製納豆の和食だった。
「半年くらいになりそうだな」「お医者さんは余命3カ月って言ってるらしいけど、お父さんは健康体だから長くなるかも知れないわね」私が食べ終わる頃、梢は電話を終えた。後は歯を磨いて顔を洗い、頭に手拭いを巻けば準備完了だ。
「最後の親孝行なるからこちらに来て心配をかけている分まで介護に励んでこい。ワシは行けないがこっちで家事に励むことで相殺してくれ」「日本の新型コロナの行動制限も緩和されているみたいだから大丈夫でしょう。ヨーロッパほどは全面解禁じゃあないだろうけど」支度を終えて自転車を押して玄関を出る前に見送っている梢に声をかけた。この後、抱き締めて熱い口づけを交わす習慣は坊主が本業になっても変わらない。これは航空自衛隊の創設期の教官だったアメリカ空軍のパイロットたちが家を出る時、2度と会えない覚悟を持って妻にキスをする作法を踏襲したもので、沖縄で梢のアパートから帰る時にもやっていた。ついでに乳を揉むのはその頃からの癖のようなものだ。
「それじゃあ航空券を手配するけど日本への片道だけにするわね」「うん、それで良い。ワシも葬儀に出席するから帰りは一緒になるだろう」「淳之介には私から電話しておくわ」キスを終えてからドアを開けた私に梢が言葉で引き止めた。私は担当医からの説明で、梢は自主学習で膵臓癌の致死率を熟知しているだけに父の生存を期待する意識は胸に浮かばない。安里の父は私と梢が交際していた頃、八重山の離島の小中学校の分校で勤務していて、婚前旅行になることを承知で2人を島に呼んでくれた。そして私の人間性を確認すると将来、本土に連れていくことを許してくれた。親と伯父の執拗な反対で苦しんでいた私が心中を口にするようになって梢が別れを決めた時にも2人の立場を理解して私を責める母をたしなめてくれた。そして不思議な縁で淳之介とあかりが交際するようになった時も私に妻がいることを知った上で復縁を期待していたらしい。だから梢が私についてオランダへ行くことを強く後押ししたのも父だった。南城市の玉城の元義父と安里の父は肉親の情を感じることなく育った私に父親と夫と言う立場にある者の規範を示してくれた。私が成長に関わった淳之介と志織の現状を見る限り、父親としてそれなりの役割を果たしたように思う。問題なのは志織の淳之介に対する一途な恋愛感情だがこればかりは経験がないだけに手の打ちようがない。
「安里のお父さんは90歳を過ぎていたな。モリヤの親父よりも年上なんだ。もう1人の親父と言えば・・・」宿舎から国際司法裁判所に向かって自転車をこぎながら私は今朝の残念な連絡を思い返していた。モリヤの父親は訃報が届かなかったため2021年6月に定年退官で日本へ行っていながら墓参もしていない。残る最後の父親はハワイのポール・ヤスト・ノザキ中佐になる。こちらは80歳代半ばだが近況は聞いていない。

イメージ画像(あの頃の梢)
- 2022/09/30(金) 15:28:28|
- 夜の連続小説9
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