「お父さんに『有難う』って伝えてくれ」「うん、私も心から感謝を込めて付き添うわ」数日後、梢はアムステルダム空港から出発した。今日は梢の希望で航空自衛隊の制服を着ている。沖縄でつき合っていた頃、基地に帰る時に玄関で挙手の敬礼をしたのを再現したいらしい。しかし、これまでこの空港からの出発は公務出張でも秘書として必ず同行していたので見送ることには身体の一部をもぎ取られるような、人生の半分を失うような感傷を覚えてしまう。制服を着ていながら人前で泣いてしまいそうだ。
「そろそろ時間よ」その時、KLMの残酷な搭乗案内がロビーに響いた。私は周囲のオランダ人たちが挨拶として軽くキスしている中で梢を強く抱き締めて熱い口づけをした。こうして取り戻した身体の一部を再び引き裂かれることを思うとこのまま離したくない。しかし、それは無常住地煩悩(無常の理に背く願望)と言うものだ。口の中で互いの舌を確かめ合うと梢は腕を振り解いて足元のキャリー・バックの取っ手を握った。
「じゃあね」「いってらっしゃい」「グスン」梢は私の挙手の敬礼を嬉しそうに確かめるとキャリー・バッグを引いて向きを変えながら声をかけた。梢が先を争って入り口に向かう乗客の列に加わると私は予想通りに鼻の中に塩水が流れ出して、梢も同じだったようで2人一緒に鼻をすすった。「じゃあね」は梢が軽いお出かけで使う台詞だが、私が「またね」と再会の言葉を口にするのは父の死を待つことになるので見送りの挨拶にした。
梢が搭乗待ちしている間に私は見送りデッキに登った。久しぶりに見る滑走路にも涙を誘われる。やはり航空自衛隊が創立した7月1日に生まれた私にとっては天職だったようだ。航空機整備員として行き詰まり、美恵子の理容師としての好奇心で本土への転属を希望することになったのが最大の過ちだった。日本陸軍の形式的模倣に過ぎない航空教育隊の教育内容に失望した私は本物を志向して陸上自衛隊に転換し、本土でも流行からほど遠い田舎の防府に失望した美恵子は不完全燃焼で理容師の仕事だけを追い求めるようになった。やはり何事も思い詰め、考え込んでしまう私には大空に続く滑走路のだだ広い空間を身近に感じていることが必要不可欠だったのだ。梢だけはそれを知り抜いていた。
「・・・君は今 スポット浴びたスターのように 滑走路と言うステージに 呑み込まれていく 君を乗せた鳥が今 翼はためかせて・・・」間もなく梢がボーディング・ブリッジ(伸縮式の搭乗桟橋)の窓からこちらに手を振って搭乗したKLMのA330が誘導路に向かい、離着陸の順番待ちをしながら視界の外れで滑走路に入った。私は梢のアパートで聴いていたさだまさしの「最終案内」を口ずさんで見送った。今は午前中なので歌詞にあるような「赤や緑のランプ」は見えないが離陸前の最終点検のエンジン音が空気を震わせて私の胸に響いてくる。那覇基地も海岸線にあるため滑走路越しに海が見えたが、あちらは珊瑚礁なので雰囲気は違う。やがて梢が乗ったA310が目の前を通り過ぎながら機首を上げ、地表から浮き上がり、高度を上げて大空へ呑み込まれていった。KLMに向かって挙手の敬礼をしている私にオランダ人の子供たちが真似をしてきたので答礼して金髪の頭を撫でてやった。
空港からは地下鉄でアムステルダム市内に向かった。これから1人で味気ない昼食をとり、それから列車でスフラーフェン・ハーグに帰る。佳織との生活も単身赴任が大半だったので家事には慣れているはずだが、梢との暮らしは私に初体験の「亭主」と言う立場を満喫させたため食事の支度をするにも気合いを入れ直さなければならない。梢のアパートで過ごしていた時も私は何もしなかったが、あくまでも週末限定の一瞬同棲であって日常生活とは別だった。この調子では梢不在の間は昼食を国際刑事裁判所内の食堂でとり、夕食は仕事帰りに外食することになりそうだ。気合いを入れ直す方向に意識は向かなかった。
「梢はアメリカン・フィーリングかも知れないな」梢を見送ってからはさだまさしの「最終案内」ばかりが胸に浮かんでくる。考えてみれば梢と一緒に行ったさだまさしのコンサートでもこの歌を聞いて滑走路の傍で働く2人の主題歌にしていたことがある。それでもスフラーフェン・ハーグの駅で下りて路面電車を待っている時、上空を旅客機が通過していくのを見て別の歌が思い浮かんだ。サーカスは沖縄出身と言うこともあってカラオケで唄う人が多く、立ち上がって踊りも披露するのが習わしだった。私の場合、梢とのデュエットだったので「フィーリング イン ナメリカ(インのNとアメリカのAが重なった発音)」と唄う時、手を頭上で大きく回転させるのを意識して踊っていた。今回はニューヨークへ向かっているのでこちらも状況は合っている。そう言えば佳織がアメリカで勤務している時に乗った旅客機の機内でも窓から雲海を見下ろしながら口ずさんだ記憶がある。あれは梢との思い出の曲だったようだ。そんなことを考えながら無意識に手を握ると隣りの席はヨーロッパ人のお爺さんだった。
- 2022/10/02(日) 15:32:53|
- 夜の連続小説9
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