9月17日に野僧が高校時代に「750(ななはん)ライダー」を少年チャンピオンに連載していた漫画家の石井いさみ先生が心不全で亡くなったそうです。80歳でした。
「750ライダー」は校則でバイクの保有・乗用を禁止されているにも関わらずホンダ・ドリームCB750を乗り回している高校生2年生・早川光が主人公で、暴走族との卓越した操縦技術を駆使した対決に品行方正な優等生で学級委員長の久美子との純愛物語や同級の劣等生の野崎順平との掛け合い漫才を絡めた物語ですが、当時は早川が通う竜堂学園高校に限らず高校生のバイクの保有は校則で禁止されていたためこの漫画の愛読者であることが学校で知られると生徒指導部から疑われることになりました。ところが蒲郡高校の品行方正・謹厳実直な同級生の男子がこの漫画と望月三起也先生の「ワイルド7(せぶん)」の大ファンで、単行本を学校で回し読みしたため自動車・バイクが大嫌いな野僧も読むことになり(別の同級生が回し読みした「サーキットの狼」は拒否した)、卒業までの15巻くらいまでは読んでいます。ちなみにその同級生は愛知県警に就職して警察学校では高速交通機動隊を熱望して白バイ・ライダーになりました。
石井先生は日本陸軍がマレー半島に上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を攻撃した昭和16(1941)年12月8日に東京都大田区で建築設計業を営む家庭に生まれました。都立蔵前工業高校に在学中に少年クラブに「たけうま兄弟」が採用されて、卒業後は漫画家になったものの牧歌的な児童漫画が中心であまり話題になることはありませんでした。ところが昭和44(1969)年に作風を一転させて少年サンデーにサッカーのスポーツ根性物語「くたばれ!涙くん」を連載するとようやく人気漫画家に名を加えられたのです。
この頃のアシスタントには後に「タッチ」や「みゆき」で人気漫画家になるあだち充先生がいて当時の作風をかなり受け継いでいると言われています。また劇画原作者の梶原一騎先生の実弟の劇画家の真樹日佐夫先生が兄の同級生で親交を持つようになり、真樹先生を通じて梶原先生とも交流を持つようになったそうです。そのため梶原先生が「新巨人の星」を執筆し始めた時、石井先生に作画させるつもりだったのですが、「750ライダー」の画風の変化(相手に事故を起こさせて倒す早川の冷酷非情な面が薄れ、久美子との純愛が中心の青春物語化していった)に悩んでいたので断り、結局、「巨人の星」と同じ川崎のぼる先生になりました(不良少年が主人公の梶原作品も連載している)。
「750ライダー」は元カミナリ族(現在の暴走族)で後にプロのバイク・レーサーになった友人の助言を受けながら描いていたため連載当時は高速道路・自動車専用道を走行する時のみ義務づけられていたヘルメット着用を早川に「風を切って走ることが実感できない」と批判させてしまい、後に全面義務化された時には前言訂正に苦労していました。
それでも元カミナリ族の助言を受けているため警察の意向に素直に従うことはなく(言い訳として道路交通法を守る場面を描くことはあったが)、バイク自体が暴走の道具として社会的に危険視されるようになると連載の継続が困難になり昭和60(1985)年に終了しました。野僧はバイクと縁はありませんでしたが元読者として冥福は祈ります。
- 2022/10/03(月) 14:33:49|
- 追悼・告別・永訣文
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