「ワシはお前に関して1つだけ残念に思っていることがあるんだ」付き添いの交代制が確立してくると父は梢の時には意識を保ち、対話するようになった。それは無理をしているのではなく「話したい」と言う願望が鎮痛剤の催眠作用に勝っているようだ。
「私は心配かけっ放しの馬鹿娘だから残念なことだらけでしょう」梢は茶化すことで父の真顔を緩めようとしたが、表情を固くしただけだった。そこで梢は椅子から立ち、父の顔を見下ろすように身体をかざした。父の目は潤んでいた。
「お前が谷茶と結婚することになったのは職場の宴会で酒を飲まされて意識を失って、アパートに送られて犯されたからだったな」「うん、裸の写真を撮られて脅されたんだよ」梢はあえて淡々と答えた。モリヤと別れた直後の職場の宴席で添乗員の谷茶は言葉巧み酒を勧め、意識を失った梢をタクシーで送ってアパートに入ると全裸の写真を撮り、乳房や性器をアップで写した後に性行為に及んだ。本当は結婚を迫られた時に「周囲にバラ撒く」と見せられた写真の中には性器を挿入中の今で言うハメ撮りもあったのだが流石に口にできなかった。
それらの写真とネガは谷茶が勝手にアパートに運び込んだ荷物の中に隠していたのを本人が海外長期ツアーに添乗出張している間に見つけて全て焼却した。すると谷茶は激怒して梢を激しく殴打したが、翌朝、顔を腫らして出勤すると上司から厳重注意を受けてそれからは露出しない首から膝の間の身体に暴行を加えるようになった。やがて谷茶は梢をストレス発散の道具に使うようになり、身体から痣が消えることはなかった。
「お前はそれを言わないで『結婚を決めた』って谷茶を紹介したからワシたちは『立ち直ったのか』と思って許可してしまった。どうして本当のことを言ってくれなかったんだ」父の目は無念さに疑問と不満、叱責と後悔を溶かした色になっている。梢は自分の顔がさらに潤んだ眼に映っているのを見て父の気持ちを受け取った。
「あかりが視覚障害になったのも谷茶が原因なんだろう。ワシたちはお前の結婚に反対しなかったことを親として後悔しているんだ」谷茶は夏休みの女子大生たちの離島ツアーに添乗して帰ってくると欲求不満の吐け口に妊娠中の梢を使った。それも母体の安全を考えることなく深く挿入する激しい性交で子宮を圧迫されたことで梢は早産し、あかりは視覚障害になった。間もなく谷茶はツアー客の女性に手をつけていたことが発覚して旅行社を退職すると離婚して東京に行った。幸いなことに連絡は一切ない。
「あの人と別れた時のお父さんとお母さんの心配は原因を作った私が不安になるくらい深くて大きかった。だからあんな目に遭ったなんて絶対に言えなかった」「親子なのに遠慮・・・お前も心配してくれたんだな」ここで父の両目から涙が流れ落ちた。父はあの時の梢の気持ちは理解していたが、本人の口から確認してパレットで無念さに溶かした絵具を水で薄めたようだ。梢は枕元に置いてあるガーゼで目尻を拭った。
「今だから言うがあの時、ワシは愛知のモリヤの親を訪ねてお前との結婚を許可するように直談判するつもりだったんだ。反対している父親の兄も教員だと聞いていたから同業者同士なら対決するにも和解するにも接点はあるはずだ。向うがどうしても反対するならモリヤを婿養子にする。恵昇は東京で就職して研究を続けたいって言っていたからお前に婿養子を取るのはワシらの間では選択肢の1つだったんだよ」「そんなことを・・・」初めて聞く話に梢は両親の海よりも深い愛情を噛み締めて胸が熱くなった。今度は梢の目が潤んできた。東京の一流大学で理数系を専攻していた兄の恵昇が共同研究で出入りしている企業から勧誘を受けていたことは知っていた。しかし、モリヤも実家が二男の分家にも関わらず長男としての立場を強要されていたので、父の直談判がモリヤにとって救いになるかは別問題だ。
「あの人は『親孝行は子供も義務だ』って言われ続けてきたから完全な板挟み、自分の親族だから自分の責任だって自分を責めてしまった。私が理解しようとすると申し訳ないって詫びたのよ。だからお父さんが婿養子にすることを決めても親に責められればもっと悩むことになったかも知れない」「息子の幸せを願わない親なんていないだろう」「あの時、モリヤの伯父はあの人には結婚を許すようなことを臭わせた手紙を送ってきて私宛の手紙を同封していたの。それで私が読んだら『結婚は絶対に許さないから諦めて沖縄人と結婚しろ』って書いてあったわ。お父さんが亡くなっても妹への遺産相続手続きが終わるまで知らせてこなかった家よ。兎に角、凄いんだから」梢が父の介護のため日本へ行くことが決まってからモリヤは真剣に自分の父親を分析していた。それによると父親は元実業団野球の選手だけに典型的なスポーツ馬鹿だが、容姿は妙にインテリ風だったので息子まで「話せば分かってくれる」と思い込んでしまったと言う結論に至ったらしい。それでも今は幸せにやり直せているので2人は後悔していない。

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- 2022/10/04(火) 14:53:52|
- 夜の連続小説9
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