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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月7日・第1次世界大戦のカナダ日系人義勇兵・諸岡幸麿の命日

昭和15(1940)年の10月7日はイギリス領のカナダに移民していたため第1次世界大戦にカナダ軍=イギリス兵として出征して戦傷を負って日本に帰国していた諸岡幸麿(さちまろ)義勇兵の命日です。56歳でした。
諸岡義勇兵は明治16(1883)年に旧佐賀藩士の家に生まれました。母は佐賀県出身の政治家で主に外交で活躍した副島種臣さんの長女でした。成長して上京すると副島邸に寄宿して青山学院の中等部(旧制)に入学し、日露戦争の翌年の明治39(1906)年に卒業すると移民として単身カナダに渡航してバンクーバーに居住しました。
当時、カナダやアメリカでは母国と仰ぐイギリスが唯一の同盟関係を結び、日露戦争に勝利して中国での利権獲得を公然化させていた日本への敵対心が沸騰していて日系人移民に対する迫害が横行していましたが諸岡義勇兵は他の日系人移民と同様に誠実に仕事に励み、カナダでの居場所を築いていきました。
そんな中、大正3(1914)年に第1次世界大戦が始まるとイギリス領だったカナダも軍を派遣することになり、国土防衛の植民地軍とは別に外征軍を編成する必要に迫られて志願兵を募集したのです。これを受けてバンクーバーの日本人会は後にアメリカの日系人移民2世たちが命を捨てて国家への忠誠心を示すことで迫害を止めさせ、アメリカ国民としての地位を認めさせるために第2次世界大戦に志願した前例のように日系人移民の従軍適齢者に同盟軍への志願を呼びかけて約200名の若者が応じたのです。
諸岡義勇兵はカナダ軍歩兵第175大隊に配属され、1916年にイギリス本土へ派遣されると基礎教育を受けた後、翌1917年にフランスに駐屯している歩兵第50大隊に転属して西部戦線の要衝だった北フランスのアラス近郊のヴィミー村にある片側が切り立った丘陵地帯・ヴィミリッジの攻略部隊に配置されました。
ところがイギリス軍とフランス軍、対するドイツ軍の双方が決戦準備を進めていた3月11日にヴィミリッジの北側にあるビュリー・グルネー村で歩哨についていて片脚の付け根付近を骨折する重傷を負い、野戦病院からイギリス本土ネドレーの赤十字病院に後送されて視察に訪れた国王に面談する栄誉に浴しました。
しかし、負傷は重篤で松葉杖生活を余儀なくされてカナダのバンクーバーの病院に転院しましたが軍務復帰どころか恢復の見込みさえ立たないため除隊になり、大正7(1918)年に日本に帰国したのです。それでも終戦後の1920年にバンクーバーのスタンレーパークに設置された日本人兵士の記念塔に名前が刻まれました。
帰国時は日英同盟の体現者として脚光を浴び、大正12(1923)年に日英同盟は失効していたものの満州事変勃発前で外交関係は決裂していなかった昭和10(1935)年には日本人が記した唯一の第1次世界大戦フランス戦線の体験記である回想記「アラス戦線へ」を刊行しましたが、「4月9日のヴィミリッジ総攻撃に参加して4月11日に負傷した」と虚構の記述もあります。その後は支那事変の拡大に伴う日英関係の険悪化の中で無視されましたが、日英開戦の1年前に亡くなったのは幸いだったでしょう。
  1. 2022/10/07(金) 13:06:09|
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