昭和29(1954)年の10月8日は敗戦後、戦争法では禁止されている日本の法体系の改変を強制するため連合国占領軍は日本人自ら希望し、起案した形式を取る必要があり、その改定憲法案を作成させられた商法学者・松本烝治先生の命日です。76歳でした。
松本先生は明治10(1877)年に東京で日本初の工学博士5人の1人で、全国に鉄道網を敷設することに多大の功績を残した松本荘一郎博士の長男として生れました。
高等師範学校付属小学校(現在の筑波大学付属小学校)から同中学校、第1高等学校を経て東京帝国大学法科大学を修了すると農商務省参事官に任官したものの母校に戻って明治36(1903)年に助教授になり、日露戦争後の明治39(1906)年から明治42(1909)年までヨーロッパに留学して帰国すると明治43(1910)年に教授に就任しました。ところが大正8(1919)年に満州鉄道に理事として招聘されて副総裁まで務め、大正12(1923)年に第2次山本権兵衛内閣の法制局長に抜擢され、翌年からは平民でも天皇に任命される貴族院の勅選議員になる一方で帝国学士院会員に選ばれ、関西大学学長に就任して昭和9(1934)年に斉藤實内閣の商工大臣になりました。
敗戦後は東久邇宮稔彦内閣に代わって幣原喜重郎内閣が発足すると占領軍の意向を受けた近衛文麿元首相が調査・研究を始めていた憲法改定の担当大臣に任命されましたが、ポツダム宣言の「民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重の確立」「平和的傾向を有する責任ある政府の樹立」などの要求の真意を読み解く政治的洞察力に欠けていたらしく、要求の主眼である「民主化」を「大日本帝国憲法下で起こった大正デモクラシーを再現させることだ」と考えていたようです。実際、昭和20(1945)年12月8日の衆議院予算委員会では私見と断りながら「天皇が統治権を総攬すると言う大日本帝国憲法の基本原則は変更しない」「議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること」「国務大臣の責任を国政全体に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと」「人民の自由及び権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること」との憲法改定の4原則を答弁しています。このため本先生の改定案は憲法の骨格には手を触れず第3条の「天皇は神聖にして侵すべからず」を「天皇は至尊にして侵すべからず」にする程度の修正に留めています。その結果、占領軍に提出した日本案は英訳と同時に拒否され、昭和21(1946)年2月にマックアーサー最高司令官は「天皇制の存続」「戦争の放棄」「封建制の禁止」の3原則を提示した上でフランクリン・ルーズベルト政権にソ連が送り込んだ工作員・ニューディーラーの巣窟だった民政局に憲法原案の作成を命じて2昼夜でできた英文を日本政府に押しつけたのです。
結局、松本先生は昭和21(1946)年5月22日に幣原内閣が退陣したため憲法改定担当大臣の職を辞し、6月25日には満州鉄道の監事の職にあったことを理由に公職追放を受けて貴族勅選議員の職も退き、その後は商法の専門家としてアメリカのような企業法務専門の松本烝治弁護士事務所を開設して多くの企業の顧問弁護士や監査役になりましたが、弁護士として出廷していた東京高等裁判所での休憩中に脳卒中で死亡したのです。
- 2022/10/08(土) 15:55:16|
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