明治37(1904)年の10月9日にこの年の2月から始まった日露戦争の前半戦のハイライトとも言うべき沙河会戦が始まりました。1つ補足すれば野僧の曾祖父・青山寛少将は歩兵第34連隊(通称・橘連隊)の大尉の中隊長としてこの会戦に参加しています。
この会戦は乃木希典愚将の第3軍が8月19日から始めた旅順要塞の攻略に多大な損害を供じている間に満州軍は全土でロシア軍を次々に撃破していてアレクセイ・クロパトキン中将はロシア軍伝統の撤退によって敵を広大なロシアの奥に誘い込み、伸び切った補給路を遮断して皇帝・ナポレオン・ボナパルトを壊滅させた戦略を採って奉天に引き籠ったため数字上で優劣を判断するモスクワは激怒して攻勢戦略を好むオスカル・フェルディナント・カジミーロヴィチ・グリッペンベルク中将を派遣したのです。
モスクワは当初、ロシア極東満州軍を2分割して半分をグリッペンベルク中将に与える意向を示していて、これを知ったクロパトキン中将は攻勢によって日本軍を撃破した実績を作る必要性に迫られて奉天の南方の沙河に布陣して補給を待っていた右翼の黒木為楨大将の第1軍と左翼の野津道貫大将の第4軍に圧倒的な戦力を持って攻撃を開始しました。
この事態にも薩摩隼人の勇将・黒木大将と野津大将は全く動じず、野津大将は少年時代に自宅に寄宿させて育てた上原勇作参謀長を、黒木大将は司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」では有能な参謀長と評されていても実際は優柔不断だった(らしい)藤井茂太少将を使い回して巧みに迎撃すると大損害を被ったロシア軍は停止し、そこに第4軍を主力とする日本軍が攻撃を加えたため沙河北方に退却したのです。
この会戦では日本軍は第3軍の旅順攻城戦と奉天決戦に向けた備蓄を優先し、ロシア軍はシベリア鉄道と満州鉄道の遅延で共に補給物資の到着が遅れていたため砲弾が足りず当初は攻勢を採ったロシア軍は事前に日本軍の陣地を破壊することができず、乃木愚将が旅順で繰り返していた「万歳突撃」に等しい無謀な攻撃を実施することになり、賢明にも早々に諦めました(そこが乃木愚将との違い)。一方、攻勢に転じた日本軍はそれ以上に砲弾不足で黒木・根津両大将を以ってしても「チェスト・イケー」の追撃によって奉天に突入することはせずに20日に戦闘を停止しました(そこも乃木愚将とは違う)。
これ以降、満州は冬季に入ったため両軍は沙河を挟んで対峙することになり、日本軍が塹壕を掘って丸太で屋根を付けて土を被せると、その上に積もって染みた雪が凍結して砲弾の破片や弾丸が貫通しない鉄壁の要塞になったそうです。これは日本軍工兵を生み育てた上原勇作少将の指導によるものなのかも知れません。
なお、この会戦の両軍の損害は日本軍の戦死傷者20497人(旅順は59400人=戦死15400人)、ロシア軍の戦死傷者41346人(旅順は46000人=戦死16000人でもビタミンC欠乏による壊血病の戦病死者が相当数)で、ロシア軍にとっては奉天決戦での戦力に不安を抱える結果になりました。
日本軍とロシア軍、沙河と旅順の戦死傷者数を比較すると無能な指揮官の下で戦う将兵の悲劇が理解できますが、曾祖父も8月から9月に遼陽で10日間の激戦を経験しています。
- 2022/10/09(日) 16:43:09|
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