1985年の10月10日にラジオでは迫真の弁舌で聴衆を圧倒し、映画では強烈な存在感で観客の目を釘づけにした名優で映画監督としても数多くの傑作を生みだした天才的映画人・オーソン・ウェルズさんが亡くなりました。70歳でした。
ウェルズさんは1915年にアメリカ北東部の五大湖岸のウィズコンシン州ケノーシャで生まれますが、父親は発明に熱中するアルコール依存症の変人、祖母はオカルトと魔術に没頭する奇人で、唯一まともだった母親は9歳の時に亡くなってしまいました。
そんな常軌を逸した家庭で育ったためなのか隣りのイリノイ州のウッドスットックにある自由な校風のトッド校に入学すると登校して授業が始まるまでに真に迫る怪談で同級生たちを恐怖に陥れ、手品やほら話で受けを取り、苛められるとトイレに逃げ込んで赤いペンキを顔に塗って大怪我をしたような演技で相手を怯えさせるなど大衆の人気を獲得する天才的手法を発揮しました。さらに入学に当たり身元引受人になってくれた校長やプロ歌手の教員の英才教育を受けて詩才や文章力を練磨していったのです。
こうして16歳になった1931年にはアイルランドに渡って有名はゲート劇場で脇役として舞台デビューを果たし、1934年に帰国すると19歳でラジオドラマのディレクター兼俳優になり、女優で社交界の花だったヴァージニア・ニコルソンさんと結婚しました。
1936年に世界恐慌で苦境にあった演劇人を救済するためアメリカ政府が連邦劇場計画(FTP)を創設するとウェルズさんはニューヨーク市ハーレム地区のアフリカ系の俳優たちの劇団に演出家として参加し、シェイクスピアさんの「マクベス」を19世紀のハイチの圧政者の宮殿に舞台を置き替えた舞台劇を企画・演出して大ヒットさせました。
しかし、この成功はかえって政府に警戒心を与え、1937年に労働者の戦いをミュージカルにすると予算の制約を口実に開演当日に中止を命じたのです。この時、ウェルズさんは共同制作者と2人で劇場前に立ち、観客たちに別の劇場に向かうように案内しましたが、政府によって上演中止を命じられているため楽団は呼べず、舞台に上がることもできなかったので共同演出家がピアノを弾き、俳優たちは客席で演技する奇策で大ヒットさせました(観客は隣りに座っている人物が俳優だったことにも驚いた)。
これ以降も天才ぶりを発揮して「第3の男」などの多くの映画に出演し、監督・脚本家として「市民ケーン」などの傑作を生み出しましたが、妥協ができない性格と持ち前の凝り性のため製作費が膨大になり、次第に商業化が進んだハリウッドでは仕事がなくなっていきました。晩年は制作費を稼ぐために多くのB級作品に出演する不可解な生活を送りましたが、それも衰えぬ映画への情熱が書かせた天才の台本だったのかも知れません。
野僧が印象に残っているウェルズさんの出演作品は亡き妻と地下のリバイバル映画劇場で見た「第3の男」です。映画では白黒の画面を最大限に活用した光と影の演出と東欧の弦楽器・ツィターの音色や足音の響きが物語の展開を際立たせていますが、帽子のひさしの影まで計算に入れた目の動きや地下排水路の影に身を隠しながら見えない存在の心理状態を感じさせるウェルズさんの演技がなければ効果は半減だったでしょう。
- 2022/10/10(月) 15:35:58|
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