1978年の明日10月15日に戦時中は太平洋戦線で日本軍の哀れな姿と悲惨な遺骸の写真を追い求め、戦後も日本に来て水俣病を企業の罪として世界に周知した写真家のウィリアム・ユージン・スミス▲(「さん」欠く)が死にました。59歳でした。
野僧は戦場写真家とは善も悪もなく、栄誉と悲劇が表裏一体をなす「戦争の真実」を記録して安全地帯にいる一般人に本質を考える材料を与えることが使命だと考えているので沖縄戦で日本軍の擲弾筒が至近距離で破裂して重傷を負った時、「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無残にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、そのことに失敗してしまった」と述べていることに多くのジャーナリストが振り回す胡散臭い独善的な思想性を感じて嫌悪しています(憎悪まではいかない)。
そんなユージン▲は1918年の第1次世界大戦が終結して1ヶ月と19日後にアメリカ本土のド真ん中のカンザス州の州庁所在地のヴィチタで小麦商の息子として生まれました。母方の祖母はネイティブ・アメリカンの血を引いています。
成長すると急速に発達していた飛行機に夢中になり、13歳の時に母親に「飛行機の写真を買って欲しい」とねだると自分のカメラを手渡され、「飛行場に行って自分で撮ってみなさい」と言われたことが写真家への道の始まりでした。すると飛行機よりも写真撮影に熱中するようになり、15歳の時には地元の高校のスポーツ・イベントの写真が地方紙・ヴィチタ・プレスに採用されました。その後も1934年に大干ばつで干上がったアーカンザス川の写真がニューヨーク・タイムスに掲載されています。
ところが1939年に大恐慌で破産した父親が猟銃で自死し、その年の秋に高校を卒業すると母親はカソリック教会のコネで写真に関する奨学金を獲得してカソリック系の大学に入れますが、すぐに退学してニューヨークに向かい1937年にニュースウィークの仕事を始めました。とは言えヨーロッパでの第2次世界大戦は取材せず、1943年になってライフに日本軍が劣勢になった太平洋戦線に派遣されてサイパン島や硫黄島、沖縄で全滅するまでの死を待つ負傷兵や集団自決した女性たちなど惨状を撮影したのです。
戦後は「自分は戦争犠牲者だ」と悲劇の主人公を演じるように長々と療養生活を送り、後遺症を喧伝しましたが、報道写真家から方向転換したように芸術性を追った作品や短文と組み合わせて今で言うフォトエッセイを発表するようになりました。
そんなユージン▲は1960年に日立製作所の国際宣伝企画で初来日しましたが、日本に対する理解不足で失敗に終わり、51歳だった1970年に母親は日本人、父親はアメリカ人の女性と出会って1週間で同棲するようになり、そこに日本の左翼文化人から水俣病の取材と写真の発表を持ちかけられて再来日したのです。以降、「人間の精神と肉体を無残にも破壊する『公害』への告発」の写真を撮り続け、世界に流布しました。
そして1972年1月7日に自社・チッソの水俣病の原因と責任を告発・追求する労働組合の代表が千葉県の工場に交渉に行ったのに同行して暴行を受けて負傷しましたが、死ぬまで沖縄戦の焼き直しのように後遺症に苦しんだそうです。やはり胡散臭いです。
- 2022/10/14(金) 15:05:30|
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